自分 ( ̄_ ̄ i)/
「畏れながら、神界の浄化に関わらせて頂いております九州-太宰府の嵐雪と申します。」
(;^_^A 「今上天皇陛下に対しまして、最後に誠に無礼・失礼な質問をさせて頂きたいのですが、御許しを賜わりたいのですが・・・」
今上天皇陛下 o(^-^)o
「構わないが何でしょうか 」
自分 (;^_^A
「明治天皇以来~ それぞれの天皇陛下、皇后陛下、宮様方には、様々な風評・風説が付き纏っていました。」
(;´▽`A`` 「ハッキリ申し上げれば、●●は病気持ちで子供がつくれない、また誰々~は天皇の本当の子供ではなく、父親が違う・・・ といった内容。。。 」
「これが明治~昭和に至るまで一貫して囁かれていました、その証拠として木戸幸一の『木戸日記』などが挙げられています。」
〔木戸幸一〕
〔『木戸日記』〕
※皇室プライベート情報は、他の有力貴族・華族の嫉妬・妬みからくる悪意ある風評をそのまま日記に書いたものでしかなかった。(他から吹き込まれた情報・・・ )
〔参考〕
※木戸幸一~ 実際は内面が揺さぶられやすい人物だったよう・・・ (小人物とでも)
※東京裁判でも「天皇免罪」の証拠として提出されたが、結果、“証拠”としては採用されなかった。
「天皇免罪」の決め手になったのは、東条英機の証言だったとか――
「今回の浄化計画で、幕末から昭和に至るまで、劣勢におかれていた日本神界が皇室の中心だけはシッカリ固めていたことが判りました。」
「唯一の例外は、昭和天皇陛下が先ほど申し上げられた通り、蛇神 -魔界皇族が一匹紛れ込んだ、侵入していたことくらいです。」
「また側室の御方から誕生された場合などは、ハッキリと明確に記録されて、今では公式にオープンになっています。」
〔大正天皇の生母-柳原愛子(やなぎわら なるこ) 〕
※明治天皇の側室
なかなかの美人 ~ (されど、コワ~イ?神様の御分魂)
※訂正(↓)
この女性は柳原愛子の義理の姉、「庄内屋シン」という女性でした。20170615 by 嵐雪
有名な柳原白蓮 は、この人物の姪にあたる。
〔柳原白蓮〕
〔大正天皇皇后-貞明(テイメイ)皇后〕
※昭和天皇、他3兄弟の母親。
※暗い影がある感じですが、皇室に対する悪意ある風評・風説によるものでした。
(この女性もある神様の御分魂~ 大正天皇とはピッタリの ~ )
※大正天皇~ 生来健康に恵まれず、生まれてから年が明けるまで重い病気を患った。
(「脳膜炎」ではなかったかとも―― )
小学生の頃、学校で先生から、「大正天皇はバカだったかも~ 」 (゚_゚i) と教えられましたが、トンデモない、病弱なのは事実でしたが、正常でした。
政治的な判断は不得手だったようですが、他は優秀だったかもしれません。
得意・不得意がハッキリしていた。
(但し、大正期という時代は、厳しい世紀末感漂う時代だったので、天皇位にある人物には超~プレッシャーに働いたかも・・・ )
〔現代の日本人の認識に欠けている事〕===========
⇒今の様な皇室のあり方、皇室の慣習、動き方、話し方、笑い方(?)・・・などは、明治・大正の頃はまだ確立していなかった。
天皇はこうあるべき(?)・・・ というものは、まだ模索・形成途中だった。
京都御所のあり方を脱して、新しい型を造り上げなければならなかったので、まだ「型」が完成していなかった。型に嵌っていなかった。
だから、大正天皇は結構気さくに振舞われることがあり、それが逆に周囲の顰蹙(ヒンシュク)をかってしまったとか・・・
更に明治天皇から、明治天皇が考えたあり方を押し付けられたこともあり、萎縮してしまったことも・・・
また、明治天皇と異なり、政治的な判断が不得手であることが国民の目からも明らかとなった。
それでも、皇太子時代には史上~初めて外遊し、お隣-大韓帝国を訪れた。
これがキッカケで朝鮮語の学習にも取り組まれた。
そして、御用邸での休暇時には、ヨット、乗馬や漢詩作りに癒しを求めていかれた。
漢詩などに関しては一品と評価も高いよう~
時勢~第一次世界大戦による国際情勢とその中における日本の立場の大きな変化が、僅かばかり残された天皇の自由を奪っていくことになり、短命に終わってしまった。
更に、大正12年9月1日には「関東大震災」が発生・・・
最後の方では、皇太子(=後の昭和天皇)が摂政に就かれていた。
※現在でも、大正天皇・皇后には様々な悪意のあるようなレッテル貼りが見受けられますが、人間の表面・一面しか観ないようなもので、悪意のある風評に過ぎません。(=ウソ)
※一見、パッと見しないような天皇でしたが、実は日本人にとっては怖い神様の御分魂でした。(大正期に起きた大事件にも関係するような― )
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「昭和天皇陛下の他の御兄弟~秩父宮様、高松宮様は神界がサポートとして送り込まれた御分魂でした。」
〔前に貞明皇后、後ろに昭和天皇・秩父宮・高松宮〕
※皆、神界関係
〔秩父宮-雍仁親王(チチブノミヤ ヤスヒトシンノウ) 〕
※1902年(明治35年) ― 1953年(昭和28年)
〔高松宮-宣仁親王(タカマツノミヤ ノブヒトシンノウ) 〕
※1905年(明治38年) ― 1987年(昭和62年)
いずれも、間違いなく―― 病弱であらせられた大正天皇陛下と貞明皇后陛下の実の宮様たちでした。
(御分魂~詳細は“日本近代史”の項にて―― )
(→その24に続く)