旧相模国~「相模原台地」一帯は特殊な状況下にあり、よってここも人間と地理の歴史、成り立ちの要おさらい。
(-""-;)
真田の件だけ集中すれば良いとのことでしたが、フタを開けてみればこの有様・・・
(確かにこの一帯は神軍が動き、超古代からの封印を解除ししましたが、その浄化内容を確定させる為に、歴史・地理・地盤構造などをザッとでも良いから勉強しなさい ~とのことでした。それで浄化をアンカーさせることができるから― という理由で。 )
関東平野は「関東ローム層」と呼ばれる箱根山・富士山・浅間山の火山灰が堆積して形成されている。
※約6万年前~1万年前までのもの。
南洋から伊豆半島や丹沢山が漂って来て、日本列島にくっついた、また喰い込んだ後に、関東ローム層で接着させた、慣らしたとも言えるのかもしれない。
まさに関東平野の「盛土」みたい・・・
(東京の某所で、盛土されていない ~ と大騒ぎになっているようですが・・・ )
そもそも、丹沢山地を取り巻く、というより丹沢山地が日本列島に喰い込んだ結果生まれた「相模」という地域はどのような処なのか
(中央高速道路が抜ける地域でもあり、大磯町-大磯ロングビーチ、平塚、茅ヶ崎などがある処。)
簡単にウィキペディアで「相模原市」を覗いてみれば、いろいろと窺える感じ~ (・・;)
◆相模野(or 相模原)台地
⇒相模川が作った“扇状地”(↓)が隆起して形成された「洪積台地」。
※単純に眺めてみれば、群馬県の沼田~渋川~前橋~高崎辺りの地形と相似~
さしずめ、左側の山岳地帯(丹沢)は榛名山といったところか・・・
相模川は“吾妻川”に相当―
◆相模川に沿って、気候変動や海水面の変化によって形成された「河岸段丘」が発達している。
※「河岸段丘」~真田氏で紹介した、群馬県の沼田でも登場していました。
(底面が川とその氾濫源、そこから段々状になっている高台地形・丘陵)
〔段丘図〕
〔神奈川県の地盤図〕
〔相模野 or 相模原-台地の段丘〕
※相模原市南区磯部上空
※相模原市下溝
※相模原市中央区水郷田名
似た様な地形構造は東京都の方にも~
〔武蔵野台地の上に乗っている東京都〕
〔東京都-国分寺崖線〕
※崖線⇒崖が一定の距離に渡って続いている処。多摩川が削り取った跡。
〔埼玉県入間川-河岸段丘〕
ついでに鎌倉の地形は~
※丘陵地に囲まれた天然要塞、確かに要害の地かも。 (-"-;A
◆相模野台地直下には伊勢原断層 が所在。
(古代)
◆相模川沿いの段丘上には古くからの人々の生活の痕跡が認められる。
※相模原市域は、石器時代→縄文時代→弥生時代→古墳時代の遺跡が豊富。
これらの遺跡は主に相模原の五つの河川沿い、一つの丘陵および三つの段丘付近に分布。
※水はあらゆる生物・人間の営みに不可欠ですが、かといって荒れる、氾濫する川近くに住む訳はありません。 (*_*) (@_@) ((>д<))
必ず高台に住むはずです。
古代から高台に定住~祭祀場、後世には神社仏閣も川を見下ろせる良地に設けられた。
〔相模川一帯-衛星画像〕 ※相模川は右端
◆市域でも後期旧石器時代末の建物跡とされる「田名向原遺跡」や、縄文時代中期の大規模集落跡である「勝坂遺跡」が分布。
〔勝坂遺跡公園〕 ※相模原市南区磯部
(↑)遺跡の北に同名神社が2ヶ所、遺跡西面=相模川方面に神社1ヶ所。
◆相武国造
相模国(現・神奈川県)東部を支配した国造で、成務天皇(13代)※の時代に諏訪の建御名方命(異名-伊勢津比古)の孫-弟武彦命(おとたけひこのみこと)を国造に定めたことに始まると伝承。
※この第13代-成務天皇とは、景行天皇(実は大和武尊様)の皇子だった人物であるが、謎のある天皇。(仲哀天皇とも兄弟になりますが)
※古く相模国は相模川流域の相武国造と、酒匂川流域の磯長(師長)国造、鎌倉別(わけ)の3つが並立しており、後の律令体制で相武国造は更に高座郡と大住郡に分かれたという。
◆相武(サガム)と磯長(シナガ)-「師長」とも表記、を併せて「相模国」となった。
⇒古代の大合併~寒川神社と川勾(かわわ)神社のいずれを相模国一之宮とするかで争ったと伝承。
※旧相模国の伝統的な祭事である国府祭(こうのまち)で知られ、祭の中心的な儀式「座問答」で有名とか・・・
(要は、二之宮にされてしまったのが納得いかない! ~ というところか・・・ )
◆相模国造の穂積忍山宿禰(ホヅミオシヤマノスクネ)は弟橘姫命の父とされている。
※「ホ=火」の氏族で大和のニギハヤヒ様の末裔。
◆上記、相模國-二之宮の川勾(かわわ)神社の御祭神様は大和武尊様の実母だった。
(神功皇后様の義理の祖母に当たる)
⇒大和武尊様の実の母親は『記紀』とは若干異っていたことになる。 ( ̄_ ̄ i)
(平安時代後期~鎌倉時代)
⇒市域は武蔵国多摩郡に成立した横山荘を本拠に同国西南部から相模国北部にかけて割拠した同族的武士団-横山党※の勢力下にあった。
※横山党 ⇒武蔵七党の一つ。(武蔵國一~六之宮の地域同族的武士団)
〔旧-武蔵國一~六之宮〕
※出雲族の流れを汲む武蔵七党は、かつて今の横浜市にも拠点神社を置いていた。
⇒元々から配流されて定住していたのか、武蔵國から進出・拡大してきたのか、どちらか。
(鎌倉時代)
三浦党の津久井( or 筑井)氏が築城したと言われている津久井城が、津久井湖隣の城山に築かれた。
※当時は湖など無かった。(湖はダムが建設されてから)
※三浦党 ⇒平安時代の相模国の武家。源頼朝公に協力して勢力拡大。
トラブルメーカー、狂犬(?) とも呼ばれた・・・最後は大きくなり過ぎて、北条氏とぶつかって滅亡。 (x_x;)
(鎌倉時代後期)
当麻に時衆教団(時宗)※の道場(無量光寺↓)が開かれた。⇒幕府の庇護を受けて繁栄~
※当麻とは、上記「勝坂遺跡公園」のすぐ北の方。
※一遍が開いた浄土宗系の団体。(諸国遊行-踊り念仏集団)
4代目を巡って当麻道場無量光寺と藤沢道場清浄光院(のち清浄光寺)に分裂し、やがて藤沢道場が優勢となった。
尚、この当麻の地も「当麻東原古墳」がある処。
※7世紀の円形古墳で、高さ3m、直径18m、中から馬具や装飾品など400点の副葬品が出土。
※古墳から眺めた相模野台地-段丘。
◆室町時代⇒上杉氏、戦国時代⇒北条氏の支配下にあった。 ( ̄^ ̄)
(戦国時代)
津久井衆は後北条氏配下にあり、武田氏と戦ったが、実際は「敵半地」と呼ばれ、半分は武田氏の勢力下だった。 (真田氏のような動き方を・・・ )
最後― 津久井城は、徳川氏に敗れて廃城となり、以降~徳川直轄領へ。
(江戸時代)
武蔵忍藩の飛地領、幕府直轄領(天領)、旗本の支配地などに分割、更に時代が下るにつれて支配が細分化されて非常に錯綜。
(近代~現代)
◆戦前の「軍都計画」 により、1930年より、陸軍士官学校をはじめとする陸軍施設があいついで移転・開設されてきた。
⇒敗戦により中断。 ×××
〔相模原-軍都計画〕
※副都心-サブ帝都構想~長野県の松代大本営構想と似た様なもの。
◆敗戦後、旧日本軍の軍施設は米軍に接収され、現在も
・「相模総合補給廠やキャンプ座間」
・「上鶴間の米軍相模原住宅地区(Sagami Housing Area)」
~が残っている。
〔米軍-相模総合補給廠の正門(西門)〕
◆日米合意に基づき、2013年、陸上自衛隊の機動運用部隊である「中央即応集団司令部」が朝霞駐屯地より移駐、「座間駐屯地」が開庁。
◆1987年(昭和62年、友好都市関係として「銀河連邦」をつくり、サガミハラ共和国を建国。
(中身は変な構想ではないようですが・・・ )
◆日本の宇宙科学の研究拠点。
⇒市内には宇宙航空研究開発機構(JAXA)宇宙科学研究所相模原キャンパスがある。
◆県庁所在地でもないのに、近年、政令指定都市へ。 ( ̄ー ̄;
(→その67に続く)