●菊池武士〔タケヒト〕(第14代当主)
※第12代-菊池武時の嫡出の子で、かつ十二男。
⇒兄達を差し置いて当主へ。
※何故か「僧形」!?・・・
父や兄と較べると柔弱で、当主としての才覚に乏しく、兄の武茂や武敏らの補佐を得て、かろうじて菊池氏の勢力を支えているという有様~
大友氏の侵攻を受け、その後も各地の諸勢力から攻撃を受けたため、武士の統治に不満を抱いた十男の兄※-武光(タケミツ) によって当主の地位を廃され、追放の憂き目に・・・
菊池武光 : 菊池武時の10番目の子。
その後、菊池武士は30歳の時出家して仏門に入り 、80~90歳前後で死去。
※この人だけは菊池神社には祀られていない?・・・ようですけど。
●菊池武光(第15代当主)
※第12代-菊池武時の10番目の子。
柔弱な弟の武士の代理として、阿蘇惟澄(コレズミ)※と共に菊池氏の居城深川城を北朝勢力から奪還。これを契機に一族中で頭角を現し、後に隈府城に入って当主の武士を廃し、武光自らが当主に~
※阿蘇惟澄(コレズミ)⇒阿蘇の領主であり、同時に阿蘇大宮司。
この大宮司の娘が菊池武光の奥方。
●「征西府」の始まり
南朝-後醍醐天皇は各地に皇子たちを派遣していました。
征西大将軍として九州へ派遣されたのが懐良(カネヨシ)親王。
比叡山を発って~
①まず四国-愛媛県の忽那島に滞在3年
②九州は大分県-佐伯市辺りに上陸、 日向を南に下って~
③次は薩摩の谷山に滞在6年
④13年目にして熊本-菊池へ。
薩摩-谷山城を拠点として北朝・足利幕府方の島津氏と対峙しつつ九州の諸豪族の勧誘に努めたそうです。
菊池武光が菊池-隈部山城※に迎え、九州における南朝勢力として征西府の拡大に乗り出しました。
※隈部山城 : 現-山鹿市菊鹿町上水野、隈部氏の館が置かれた所。
山城は標高340~370mの山腹に南北60m、東西85mの平場に築城。
ここからは菊地平野が、遠くは金峰山、さらに天気のよい日は、雲仙岳を見ることができるそうです。
〔隈部山城(隈部氏館)跡〕
この時代の当面の敵は、一色氏と小弐氏。 →この2氏間でも争い。
他に豊後の大友氏も。
※一色氏⇒北朝が派遣した九州探題。
数度の戦いで撃破されて、とうとう九州より追放・排除~
豊後の大友氏を降伏させて 、九州における南朝勢力の優勢を確立。
(これでついに九州の足利氏勢力をほぼ一掃~ )
ところが ・・・
ここで今度は味方(になっていたはず・・・ )から反旗~ ヾ(▼ヘ▼;)
外来勢力であった九州探題が没落すると、それまで南軍に服していた少弐・大友氏らは再び反-南朝勢力に・・・ ( ̄へ  ̄ 凸
第12代-菊池武時が九州探題を襲撃した時に、背後を突いて菊池武時等をさらし首 にした、あの氏族の面々です。
(もう止めてまとまっていれば良いものを懲りない面々・・・ ( ̄_ ̄ i) )
菊池氏は大友氏の反攻を受け一時は敗北 、その後勢力を盛り返し 撃破~
続いて少弐氏と「筑後川の戦い」で激戦、小弐氏は太宰府へ敗走~ (ノ◇≦。)
※これは“九州の合戦史上最大の戦い”と言われるそうです。
〔筑後川の戦いの菊池武光〕
筑後川での戦勝後、菊池武光は北朝軍の掃討を推し進め、ついに古より九州の「首府」であった大宰府の制圧に成功。 (1361年)
(これでは自宅付近も激戦地跡だったようですね・・・ (-"-;A )
少弐氏は本拠地の有智山(ウチヤマ)城※を放棄して豊後の大友氏の元へ落ち延び。
。・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。
※有智山城 : 竈門天狗様の宝満山-竈門神社付近。
(高千穂神界に出入りされている天狗様。かつての一つの御名前は神道夢想流杖術の夢想権之助)
※地図上、九重ヶ原(↑)付近がかつての有智山城が置かれた辺り。
左下隅に竈門神社-下宮。
そこからさらに20分ほど左(西方)に下って行けば太宰府天満宮裏へ~
〔竈門神社-下宮〕 ヾ(▼ヘ▼;)
〔有智山(ウチヤマ)城〕
とは言っても、どなたかの福岡城みたいなところではありません。
宝満山-修験道系の山中に分け入った処で、現状はこの有様・・・
(-。-;)
▲石垣・空堀址
▲石垣址
▲大手門址
▲本丸址
懐良親王は大宰府に入城し、ここに征西府を移して「懐良親王-菊池武光」による九州支配の体勢を確立。
※太宰府政庁=南朝-征西府の始まり。
全国各地で南朝勢力が劣勢に立たされる中、九州で圧倒的優位を誇る「征西府」は、まさに南朝軍最後の希望であったようです。
この時の東征軍は菊池・島津・伊東・原田・秋月・三原・草野・松浦・星野・平戸・千葉・大村・山鹿などの九州の有力諸氏を従えた7万騎と号する大軍であったとされるとか~
しかしこの南軍の起死回生を狙った一大計画は、征西府軍が瀬戸内地方の制海権を完全に確保し切れていなかった事もあって、北軍に転じていた大内氏(中国地方)により下関付近で進軍を阻まれ、 逆に大損害を被る敗北へ~
結局これによって征西府軍による東征計画は敢え無く失敗に終わり、大宰府へ敗走した懐良親王と菊池武光は、なおも九州における征西府の勢威を維持し続けたものの、この東征失敗以降、征西府は徐々に衰退~
⇒征西府衰退の始まり。 (>_<)
(→その5に続く)
※第12代-菊池武時の嫡出の子で、かつ十二男。
⇒兄達を差し置いて当主へ。
※何故か「僧形」!?・・・
父や兄と較べると柔弱で、当主としての才覚に乏しく、兄の武茂や武敏らの補佐を得て、かろうじて菊池氏の勢力を支えているという有様~
大友氏の侵攻を受け、その後も各地の諸勢力から攻撃を受けたため、武士の統治に不満を抱いた十男の兄※-武光(タケミツ) によって当主の地位を廃され、追放の憂き目に・・・
菊池武光 : 菊池武時の10番目の子。
その後、菊池武士は30歳の時出家して仏門に入り 、80~90歳前後で死去。
※この人だけは菊池神社には祀られていない?・・・ようですけど。
●菊池武光(第15代当主)
※第12代-菊池武時の10番目の子。
柔弱な弟の武士の代理として、阿蘇惟澄(コレズミ)※と共に菊池氏の居城深川城を北朝勢力から奪還。これを契機に一族中で頭角を現し、後に隈府城に入って当主の武士を廃し、武光自らが当主に~
※阿蘇惟澄(コレズミ)⇒阿蘇の領主であり、同時に阿蘇大宮司。
この大宮司の娘が菊池武光の奥方。
●「征西府」の始まり
南朝-後醍醐天皇は各地に皇子たちを派遣していました。
征西大将軍として九州へ派遣されたのが懐良(カネヨシ)親王。
比叡山を発って~
①まず四国-愛媛県の忽那島に滞在3年
②九州は大分県-佐伯市辺りに上陸、 日向を南に下って~
③次は薩摩の谷山に滞在6年
④13年目にして熊本-菊池へ。
薩摩-谷山城を拠点として北朝・足利幕府方の島津氏と対峙しつつ九州の諸豪族の勧誘に努めたそうです。
菊池武光が菊池-隈部山城※に迎え、九州における南朝勢力として征西府の拡大に乗り出しました。
※隈部山城 : 現-山鹿市菊鹿町上水野、隈部氏の館が置かれた所。
山城は標高340~370mの山腹に南北60m、東西85mの平場に築城。
ここからは菊地平野が、遠くは金峰山、さらに天気のよい日は、雲仙岳を見ることができるそうです。
〔隈部山城(隈部氏館)跡〕
この時代の当面の敵は、一色氏と小弐氏。 →この2氏間でも争い。
他に豊後の大友氏も。
※一色氏⇒北朝が派遣した九州探題。
数度の戦いで撃破されて、とうとう九州より追放・排除~
豊後の大友氏を降伏させて 、九州における南朝勢力の優勢を確立。
(これでついに九州の足利氏勢力をほぼ一掃~ )
ところが ・・・
ここで今度は味方(になっていたはず・・・ )から反旗~ ヾ(▼ヘ▼;)
外来勢力であった九州探題が没落すると、それまで南軍に服していた少弐・大友氏らは再び反-南朝勢力に・・・ ( ̄へ  ̄ 凸
第12代-菊池武時が九州探題を襲撃した時に、背後を突いて菊池武時等をさらし首 にした、あの氏族の面々です。
(もう止めてまとまっていれば良いものを懲りない面々・・・ ( ̄_ ̄ i) )
菊池氏は大友氏の反攻を受け一時は敗北 、その後勢力を盛り返し 撃破~
続いて少弐氏と「筑後川の戦い」で激戦、小弐氏は太宰府へ敗走~ (ノ◇≦。)
※これは“九州の合戦史上最大の戦い”と言われるそうです。
〔筑後川の戦いの菊池武光〕
筑後川での戦勝後、菊池武光は北朝軍の掃討を推し進め、ついに古より九州の「首府」であった大宰府の制圧に成功。 (1361年)
(これでは自宅付近も激戦地跡だったようですね・・・ (-"-;A )
少弐氏は本拠地の有智山(ウチヤマ)城※を放棄して豊後の大友氏の元へ落ち延び。
。・゚゚・(≧д≦)・゚゚・。
※有智山城 : 竈門天狗様の宝満山-竈門神社付近。
(高千穂神界に出入りされている天狗様。かつての一つの御名前は神道夢想流杖術の夢想権之助)
※地図上、九重ヶ原(↑)付近がかつての有智山城が置かれた辺り。
左下隅に竈門神社-下宮。
そこからさらに20分ほど左(西方)に下って行けば太宰府天満宮裏へ~
〔竈門神社-下宮〕 ヾ(▼ヘ▼;)
〔有智山(ウチヤマ)城〕
とは言っても、どなたかの福岡城みたいなところではありません。
宝満山-修験道系の山中に分け入った処で、現状はこの有様・・・
(-。-;)
▲石垣・空堀址
▲石垣址
▲大手門址
▲本丸址
懐良親王は大宰府に入城し、ここに征西府を移して「懐良親王-菊池武光」による九州支配の体勢を確立。
※太宰府政庁=南朝-征西府の始まり。
全国各地で南朝勢力が劣勢に立たされる中、九州で圧倒的優位を誇る「征西府」は、まさに南朝軍最後の希望であったようです。
この時の東征軍は菊池・島津・伊東・原田・秋月・三原・草野・松浦・星野・平戸・千葉・大村・山鹿などの九州の有力諸氏を従えた7万騎と号する大軍であったとされるとか~
しかしこの南軍の起死回生を狙った一大計画は、征西府軍が瀬戸内地方の制海権を完全に確保し切れていなかった事もあって、北軍に転じていた大内氏(中国地方)により下関付近で進軍を阻まれ、 逆に大損害を被る敗北へ~
結局これによって征西府軍による東征計画は敢え無く失敗に終わり、大宰府へ敗走した懐良親王と菊池武光は、なおも九州における征西府の勢威を維持し続けたものの、この東征失敗以降、征西府は徐々に衰退~
⇒征西府衰退の始まり。 (>_<)
(→その5に続く)