松山善三「母」(1988) | 映画遁世日記

松山善三「母」(1988)

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母 (1988)
監督:松山善三
脚本:松山善三
撮影:山崎善弘
出演:吉村実子、川谷拓三、未来貴子、佐藤輝、村田雄浩、大空真弓、塩沢とき、木瓜みらい、桜井ゆうこ、星野利晴

前回の日記で取り上げた木下恵介「父」とこの「母」という2本の映画は、ベスト・ファーザー賞(って賞があるじゃないですか?アレ)をはじめ、様々な"父企画"を主催している日本ファーザーズ・デイ委員会という集団が製作した企画モノで、2本立てで公開された。「母」の監督は木下監督のまな弟子・松山善三。いきなり話は逸れるが(しかもネット上で簡単に確認できる程度のネタなのだが)、この松山監督の経歴が凄すぎる!

1948年、松山は助監督公募に合格して松竹大船撮影所助監督部に入社する。中村登、吉村公三郎につくかたわら、同期入社の斎藤武市、中平康、鈴木清順らと「赤八会」というグループを作り、同人雑誌にシナリオを発表する。それが木下惠介の目に止まり「君、うちの組に来ないか」と誘われ1950年の『婚約指輪』で木下監督についた。(中略)それから、木下監督の映画に出演するようになった高峰秀子と顔を合わせることもあった松山なのだが、もちろん2人は駆け出しの木っ端と超ド級のスーパースターという関係でしかない。しかしおデコも大きいが気持ちもでっかいデコちゃん、いつも撮影が終わると駅まで徒歩で帰る松山に(たぶん、お情けで)「乗って行きませんか」と声を掛け運転手付きの自家用外国車で拾ってあげたりするようになった。これだけでも大変名誉なことであるのに、ある日松山は何をトチ狂ったのか師匠である木下監督に「師匠、おらぁデコちゃんと付き合いてぇ。高峰秀子さんと付き合わせて下さい(台詞、大胆アレンジしてます)」と懇願してきた。まさに「ハァ?」状態の木下監督。我に返ると「松山君ッ、身の程をわきまえなさい!」とプンプンになって一蹴した。当然である。これまで各界の大物達をメロメロにしてきた稀代の大女優デコちゃん。戦時中は彼女のブロマイドを胸に戦地へと旅立った者もいるくらいなのだ。そのデコちゃんをお前はいったい何と心得る?

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しかし松山はいくら師匠にケチョンケチョンに叱責されようが一歩も引かなかった。それどころか師匠と刺し違える勢いであった(何でやねんw)。その願いこそまるで馬鹿馬鹿しい代物であったが、ひとりの人間として松山を買っていた木下監督は、困り果てた末にデコちゃんを呼んで松山の意向を伝えた。それを聞いたデコちゃんは目の前の木下監督を黙って見つめていた。空気を読んだ木下監督は「ごめんなさい、こんな話をして」「こんなこと言う人いないよね。バカバカしいよね、全く」とその場を収めたのだが、なんと翌日にデコちゃんから「昨夜のお話ですけど、考えました。付き合ってみます」との答えが。超ド級の格差カップル誕生。まさに「ハァーーー!?」状態の木下監督だが、なんと2人はそのまま結婚することになる。松山が木下監督の元に弟子入りしてから5年目のことであった。この際、川口松太郎&三益愛子夫妻と共に仲人も勤めた木下監督(仲人陣もおっそろしく豪華だ!)は、めでたい話が横から漏れてゴシップ扱いにされるのを嫌い、自ら先手を打って報道各社に「松竹の木下ですが、うちの松山君と高峰秀子を結婚させますので取材に来てください」と電話をして関係者一同による記者会見を行った。木下監督、カッコイイ。これが今でいうところの"芸能人の結婚記者会見"のさきがけといわれている。とにかく何から何まで異例ずくしだったのである。

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かつて松山と共にペンを握った斎藤武市、中平康、鈴木清順の3人はこの騒動をどんな思いで見ていたのだろうか?3人とも監督デビューが叶ったのは松山が結婚した翌年の1956年のことなのである。当時は「ウソーー!!!マジかーーーー!!??」てな具合だったのではないだろうか(笑)。

(以上、いろいろなところからパクった文章をミックスしたり大幅アレンジしたり。心当たりのある方、申し訳ございません)

と、ここまで書いてきて、何故木下監督の「父」が板東英二主演の軽いコメディ映画だったのかが合点がいったような気がした。木下監督は「自身は英二のライトなやつをやるから、松山はいっちょズシンとくるやつを頼んだぞ!」と、映画監督としてはいまいち地位を確立出来きておらず、前作「典子は、今」(1981)以来暫く映画を撮っていなかったまな弟子に花を持たせようとしたのではないだろうか?なんだかこの2人にはそれくらいの絆の大きさを感じてしまうのである。ちなみに(さらに脱線しますが)"映画監督としてはいまいち地位を確立出来きておらず"なんて書いてしまったが、個人的に前々から松山監督の「ふたりのイーダ」(1976)という映画がとても気になっている。反戦児童文学であり、広島原爆映画であり、ファンタジーであり、特撮要素もあるとう。近年も広島で上映会が開かれたりしたそうなので、フィルムはあるのだ…。観てみたい。

閑話休題

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昭和30年、秋。東北のある村で農業を営んでいた磯村久一郎は、祭りに参加した際騎馬戦で落馬し、半身不随になってしまった。磯村には妻と5人の子供がいたが、この事故をきっかけに生活は激変した。母が夫の看病に専念するために、母親であることを放棄したのである。子供たちは勉強以外の家事、炊事、洗濯、掃除なども自分たちでしなければならなくなった。

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前半は母・吉村実子(18年振りの映画復帰。見事な復活!)と子供たちとの触れ合い、つつましくも楽しく暮らす家族の姿が淡々と、これでもかというくらいに(笑)描かれる。名キャメラマン・山崎善弘の映し出す四季の風景が美しい。

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ある日、お祭大好き男の父・拓ボンが祭で張り切りすぎて大怪我をしてしまう。脊髄をやられ、動くことも話すこともできなくなった拓ボンの看護に専念するために、吉村は子供たちに「今日から私は母ちゃんをやめます」宣言をする。それから本当に子供たちのことを丸っきり構わなくなってしまったお母ちゃんを取り戻すために、子供たちは父・拓ボンを「殺してしまおう」と話し合うほど追い詰められていく(笑)。

ちなみに(不謹慎な書き方だが)動けなくなってからの拓ボンが本当に素晴らしい。寝たきり状態なのに"素晴らしい演技"ってなかなか見れないと思う(笑)。これは絶対に川谷拓三以外では考えられない。ベスト・キャスティング!

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吉村の介護の甲斐もあり、かろうじて手を少しだけ動かせるようになった拓ボン。指で数字を表して簡単な"意思"を伝えられるようになる。このシーンが実に絶妙で、一緒に観ていた小学生の娘もウケていたw。そして同じようなシーンで今度は泣けるシーンも用意されているという…。

憎いよコノォ!ド根性ガエル!

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そして…
そのまま、拓ボンは15年生き続ける
(もっと書くと、さらに10年以上生き続ける)

その間子供たちは子供たちだけで成長し、皆家を出て思い思いの人生を歩んでいた。

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そんなある日、末っ子の久子が結婚することになった。他の兄妹は皆、自分が住んでいる土地で結婚式を済ませてしまっていたので、お母ちゃんに"娘の花嫁衣裳を見せるチャンス"はこれが最後と久子は兄と一緒にお母ちゃんたちが暮らす実家に凱旋する…。

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映画はまだまだ続くのだが、それはまたの機会(ないよ!)に…

さて、結論を書くと松山監督は見事木下監督の期待に答えていたと思う。つまり、とてもいい映画だと思った。木下監督の「父」の何倍も何倍も良い映画である。オチがまた普通の感覚では思いも付かないようなオチで個人的に軽くビックリしたのだが、何故こういうオチになったのかというと、(「父」もそうなのだが)本作は例の日本ファーザーズ・デイ委員会が一般公募した「母」なり「父」に関する作文が原作となっているからであり、つまりは「本当にあった話なんだから仕方ないじゃん!」ということなのである。(そうなると坂東英二の滅茶苦茶な「父」の話も実話だったってことかw)

さて、前振りばかりが長くて(本当に長ぇよ!)感想自体はちょっぴりでしたが…


おわり