阿寒に果つ (1975) | 映画遁世日記

阿寒に果つ (1975)

映画遁世日記-阿寒に果つ 01

阿寒に果つ (1975)
監督:渡辺邦彦
原作:渡辺淳一
出演:五十嵐じゅん、三浦友和、地井武男、大出俊、二宮さよ子

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恋に芸術に行きづまり十八年の短い一生に自ら終止符を打った少女を描いた渡辺淳一の同名小説の映画化

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とてもよく出来た作品で、北海道のロケーションも素晴らしいし、五十嵐じゅん(五十嵐淳子)も素晴らしい(脱ぎっぷり含む)。そしてその結末にはなんとも言えない感慨を憶えます。

しかしどうでしょう?この傲慢なヒロイン像、翻弄される男たち・・・観ていると「なんだいなんだい!この鼻持ちならない娘は!お尻ペンペンしたろうか!?」なんて(ちょっぴり)思っちゃったりもします。それから、このドラマは少々出来すぎというかなんというか、或る意味においては"陳腐"とさえ思えました。

それは・・・ これが創作だった場合です・・・。

しかしこれが実話だということで、話は全然違ってきます!

ゲンキンなもので、これが実話だと知り、とても胸がキューってなりました。いろんなことがモヤモヤって浮かびました。尾を引くってやつです・・・。

以下、多少のネタバレ注意です(とはいっても実際にあった出来事なのでネタバレと言うのかどうか)。




映画遁世日記-阿寒に果つ 02


まず、この映画のモデルになった出来事はどういうことだったかというと・・・

2006年の朝日新聞に載っていたという記事(コピペ)

朝日の記事より:
 白一色の世界に出現した1点の鮮やかな赤。19××年ごろの札幌に、まさしくそんな女子高生がいた。
 少女の名は加清純子。
 15歳で北海道展に入選。中央の女流画家展にも出品し、「天才少女画家」の名をほしいままにした。地元紙は「画壇のホープ」と書きたてた。才気ほとばしる早熟の「赤」。
 髪は茶色に染め、高校にもあまり行かず、深夜まで喫茶店や居酒屋に入り浸った。気鋭の画家やダンディーな新聞記者ら、複数の男性と浮名を流した。大人びた不良の「赤」。
 肌は北国の少女の中でも抜きんでて白く、結核を患っているとのうわさだった。当時の同級生は「妖精みたいでした」と語る。厳冬の校庭で雪像を制作した際、完成間近いロダンの「接吻」像に血を吐いた。つややかな雪像を汚す、鮮血の「赤」。
 猫のように捕らえどころがなくて、小悪魔的。付き合った男たちは焦燥を募らせた。××年1月の深夜、男たちの家の前に、一輪のカーネーションを残して失跡した。雪道にひっそりと置かれた、謎めいた花の「赤」。
 雪解けの4月、純子は阿寒湖を見下ろす釧北峠で凍死体となって発見された。息をのむほどきれいな死に顔。睡眠薬の空き箱が近くに落ちており、警察は自殺と断定した。白銀の原野に横たわったコートの痛ましい「赤」。
 遺書はなく、純子がなぜ命を絶ったのかは、わからない。彼女の衝撃的な死は、付き合った男たちにやりきれない思いを刻み込んだ。
 そんな男の一人に、札幌南高校の同級生がいた。真面目な優等生だった彼は純子に誘惑されてとりこになる。学校の図書館で夜ごとあいびきを重ね、酒とたばこと接吻の味を覚えた。
 劇的な初恋は、彼の人生を変えた。若き日にまかれた種は20年後、物語に結実する。____以下省略


と、まぁイマイチわかりにくいですが、とにかく北海道に天才少女画家がいたんだけど、阿寒で自殺した、と。で、生前この少女は5人の男性とお付き合いしていたんだけど、死後、その人たちに話を聞くとそれぞれが「淳子にとってこの俺がナンバー1だった」と思ってたっていうんです。そりゃそうです。阿寒に向かう前夜、5人全員に一輪のカーネーションを残していったんですもん。「あいつ、俺だけに花を残して。。」と、ぜったい勘違いしてしまいますよね(笑)。とまぁ、この少女の自己演出能力(天然説もあり)、ナルシシズムはハンパではありません。そんな少女の生き様を五十嵐淳子が「もう、あなたが純子です!」としか思えなくなってくるようなハマリ具合で魅せてくれます。(実際の五十嵐淳子といえば、それまで男性と付き合ったことがなかったのに、ドラマで共演した中村雅俊とチョコっとお付き合いしたら子供が出来ちゃってそのままケッコンしちゃったという・・・生涯男性一人(多分)という、加清純子さんとは似ても似つかぬ人物像でございます)

そして!

映画を観てるだけでは分りようもなかったのですが、この少女と付き合っていた男性陣が興味深い面子でして

・北海道画壇の重鎮だった菊池又男
・べトナム戦争の報道で有名だった岡村昭彦
・演出家岡村春彦(実相寺昭雄がらみの仕事多し)

ついでに純子の姉、時任蘭子は後に青娥書房を興した加清蘭(よくわからん)

そして・・・ 何よりもこの映画の原作者である渡辺淳一(aka.「失楽園」「愛の流刑地」「ひとひらの雪」「遠き落日」etc...etc...)である!!!

大きい声では言えないですが、もしかして純子さんって今で言う"あげマン"だったのでしょうか?(まったくもって不謹慎)


そしてそして・・・ なんとこれ、映画だと現代の物語(1975年当時)としてアレンジされてましたが・・・

実は1949~1952年辺りのお話だったということに衝撃を受けました!ガビーン!当時としては内容がブっ飛んでいる

あまりにも70年代臭がする映画だったので・・・これにはびっくりたまげたもんざえもん・・・

映画遁世日記-阿寒に果つ 03

・・・とココまで書いてちっとも話がまとまらないので・・・死ぬほど手抜きで当の渡辺氏のエッセイをコピペ(ものすごく長文)して終わります。

こんな映画だっ(笑)


渡辺淳一『マイセンチメンタル・ジャーニイ』〕から:

雪の阿寒

「阿寒」ときいて、わたしが真っ先に思い出すのは、誰も訪れぬ雪の斜面に点々と続く足跡と赤いコートである。
 まさしくこの幻想どおり、一九五二年一月二五日、一人の少女が雪の阿寒の果てに消えた。
 少女の名前は加清純子。このとき高校三年生で十八歳。
 あまりに若すぎる少女の失踪であったが、それから二ヵ月半後の四月の初め、少女は雪の中から死体となって現れた。
「死に顔の最も美しい死に方はなんであろうか。(略)生きていた時よりも美しく、華麗に死ぬ方法はただ一つ、あの死に方しかない。あの澄んで冷え冷えとした死。純子はそのことを知っていたであろうか。あの若さで、果して死ぬ時、そこまで計算していたであろうか」
 わたしの著書、『阿寒に果つ』の冒頭の部分である。
 このことからもわかるように、この小説のモデルは、いまから四十数年前に雪の阿寒で命を絶った加清純子その人であり、この本の「若き作家の章」に出てくる「俊一」という少年は、わたし自身の高校生のときの実像である。

 今年(一九九七年)の冬、わたしは純子の面影を追って、真冬の阿寒へ行ってみた。
 すでに死後、四十年以上も経っている少女の足跡を追って、なにが得られるのか。
 すべては茫洋とした過去の中に埋れて消え去るだけだ、という思いもあった。
 だがわたしの心の中では、いまもたしかに純子は生きている。
 その人がこの世の最期のときを生きて、自ら命を絶ったところを訪れるのも、それなりの意味があり、それなりに見えてくるものもあるかもしれない。
 そんな思いから、わたしは再び真冬の阿寒を訪れた。

 わたしが純子を知ったのは、高校二年生だった。
 恋は多くの場合、男から仕掛けるものだが、わたしたちの恋は、女の純子から仕掛けられたものだった。
 わたしの誕生日が近づいた十月のある日、机の中に純子からの一通の手紙が入っていた。
「今度の、あなたの誕生日を祝ってあげる、二人だけで。純子」
 その走り書きのような一言で、私は舞い上がってしまった。
 当時、わたしは自分でいうのもおこがましいが、真面目で優秀な生徒であった。
 一方、純子はすでに画家として北海道展や東京の女流画家展などに出品していて、天才少女画家といわれていた。学校で見かける純子は色白でセーラー服を着ていたが、髪はいまでいう茶髪で、噂ではオキシフル液やビールで脱色しているのだ、ときいていた。
 彼女はあまり授業にも出席せず、出てきても早退することが多かったが、家ではほとんどキャンバスに向かい、展覧会の打合わせなどで、東京へ行くことも多いのだときいていた。
 くわえて彼女は肺結核で、そのためよく入院することもあるが、画家など文化人と、薄野のバーや喫茶店で夜遅くまで飲んでいることもあるらしい。
 すべては人からきいた話だが、当時の高校生としては、純子はとくべつの存在で、教師たちも彼女には一目おき、欠席もおおめに見ていることがあった。
 はっきりいって、わたしはこんな純子が嫌いだった。たとえ天才画家であったとしても、高校生ならきちんと規則を守るべきではないか。いかに才能があり、愛らしいからといって、授業時間中に子猫のように忍びこんできて、また用事でも思い出したかのようにするりと消えていく。そんな我儘は許されるべきではない。テストの時も答案を一番最初に出したが、内容はフランス語で、「わかりません」という一言だった、などという噂をきく度に、気どったいやな女、という思いを深くした。
 純子は多分、わたしのそんな反撥心を知っていたのかも知れない。
 誕生日の夜、わたしは純子に誘われて寿司屋に行き、そこで初めてカウンターに座って寿司をご馳走になったうえ、帰りがてら、夜道で突然「キスをして」と言われてはじめての接吻をした。
 少年の心は純情というか脆いというか、その日から、わたしはたちまち彼女の虜になった。
 つい少し前まで、あれほど純子を嫌い、憎んでいたはずなのに、あれはただ、早熟すぎる純子への、少年独特の妬みであり、突っ張りにすぎなかったのか。
 ともかくその時から、わたしは自ら望んで、純子との逢引を重ねた。
 場所はそのころ、わたしが図書部の部長をしていたことから、鍵が自由になった図書館の部員室をつかい、そこで夜遅く密に逢い、接吻を交わす。すでに煙草を吸い、ウイスキーを飲んでいた純子は、初心だったわたしにそれらを教え、純情な分だけ、わたしは急速に彼女に染まっていった。
 さらに純子は同人誌にも加わっていて、「二重セックス」などという小説を発表していたし、フランスの恋愛映画などを見ながら、「デカダン」とか「アンニュイ」という言葉をよくつぶやいた。
 この秋から翌年春にかけての、彼女と過ごした濃密な時間のおかげで、わたしは恋と女性に目覚めるとともに、藝術的な雰囲気に強い憧れを抱くようになった。
 よく「女は男によってつくられる」といわれるが、それだけではない。逆に、「男が女につくられる」こともある。わたしにとっての純子は、まさに後者の例で、あのころ彼女に会っていなかったら、現在のわたしはなかったかもしれない。

 秋から冬にかけて、わたしたちのあいだは順調であった。相変わらず夜、図書館の部員室で密会して煙草を吸い、ウイスキーを飲み交わす。万一、教師に見つかったら大変なことになると思いながら、そんな教師や親も裏切っているという背徳の思いが、一層、わたしの気持を
彼女に向けさせた。
 だが、そんな気持に水をさすような噂がわたしの耳に入ってきた。
 純子にはつき合っている男友達が何人もいて、そのいずれとも深い関係にあるという。たとえば彼女の絵画の先生や、かかりつけの医師、新聞記者などで、彼女はそれら中年の男たちに囲まれて、ときには女王さまのように振舞っているともいう。
 しかし、わたしはそれらの噂をきいても、怒る気にはなれなかった。
 たとえ純子が中年の男性たちとつき合っていたとしても、それは自分とは遠い別の世界のことである。高校生の分際で、見知らぬ世界の男たちのことを嫉妬したとこ
ろではじまらない。たとえ彼女が他の男性とつき合っていたとしても、自分との逢瀬を守ってくれさえすればそれでいい。
 そんな状態のなかで、ひとつだけ気になる噂が入ってきた。
 春の初めころから、純子は東京からきたОという男とつき合っているという。その男は一説では共産党員であるともいうが、三十歳くらいでハンサムで、くわえて芸術的感性が鋭く、弁も立つらしい。
 それを聞いた瞬間、わたしはその男に純子を奪われるに違いないと思った。まだ恋には稚なかったとはいえ、愛する男の勘とでもいうのであろうか。
 予感どおり、純子は急速にわたしを離れ、その男と親しくなっていったようである。そして高校三年の夏が始まる頃、わたしたちのあいだは完全に終っていた。
 むろん、わたしはなお純子の未練があったが、引き戻すほどの力はないし、大学受験が目前に迫っていた。
 その苛立ちのなかで、わたしは自分にいいきかせた。
 彼女が去っていったのは、自分があまりに若すぎて退屈したからに違いない。だがこれから大学に入り、さらに大人になれば、彼女はまた戻ってきてくれるかもしれない。
 彼女への思いをきっぱり断ち切り、受験勉強に熱中しようと努めたが、それと反するように、純子は学校を休みがちになり、ついにはほとんど現れなくなった。彼女の友人の話では、東京芸大を目指していたが、それをあきらめて、Оに深入りしているという。
 そのまま純子のことは極力忘れるように努めながら、受験勉強をしていた一月の半ば、深夜一時すぎ、わたしはふと肌寒さを覚えて目覚めた。受験勉強に疲れて仮眠していたのだが、振り返ると、うしろの窓がかすかに開いている。
 咄嗟に、わたしは純子が訪ねてきたことを知った。
 これまで純子はわたしのところを訪れるときは、いつも部屋の窓をこつこつと叩き、少女にしては暗い笑顔でうなずき、わたしはそれを見て窓からとび出すのが常だった。
 驚いたわたしはすぐ窓を開けてあたりを見廻したが、純子の姿はなく、かわりに窓の下まで積もった雪の上に、赤いカーネーションが一輪おかれていた。
 慌ててわたしは外に出てあとを追ったが、月に照らされた雪道は静まり返ったまま人影ひとつなかった。
 わたしは雪の上のカーネーションを拾い、翌朝、学校に行くや、純子と親しい友人に、彼女の居場所をきいた。「純子は今日一番の列車で阿寒へ行くといっていたから、もういないと思うわ」
 瞬間、わたしは不吉な予感にとらわれたが、不幸にして、それが現実となった。
 そのあと、彼女は釧路へ行き、そこで数日過ごしてから、一人で雪の阿寒に向った。ここで雄阿寒ホテルに二泊したあと、純子は雪が晴れるのを待って、スケッチに行くと言って、阿寒と北見を結ぶ釧北峠の方向へ歩いて行った。 
 そこまでが地元の人が知っている、純子の最後の足どりであった。
 それから二ヵ月半後、純子の死体は阿寒湖を見下ろす釧北峠に近い雪の斜面で、発見された。
 四月に入り、雪深い阿寒にもようやく春の陽ざしが訪れるころ、純子は赤いコートを着たまま雪の中から現れた。顔は伏せていたので、生きていたとき以上に蒼ざめ、美しさを保っていたが、まわりには死ぬ前に嚥んだと思われるアドルムの瓶と、彼女が好んでいた「光」という煙草の箱と、マッチなどが散っていた。

 純子はなぜ死んだのか。遺書がないだけに、いまとなっては誰にもわからない。
 だが若かったころ、いっときでも身近にいたものとして、わたしはわたしなりに推測することができる。
 純子のように早熟で、エキセントリックでナルシスティックな少女には、あのあたりが生きる限界であったのかもしれない。
 当時、少年であったわたしには、純子はすべてを知っている大人のように見えたが、彼女は彼女なりに精一杯に背伸びし、さまざまな演技をしていたのかもしれない。
 たとえば、札幌を発って阿寒に向かう前夜、わたしの部屋の窓の下に赤いカーネーションを置いていったが、あとで知ったことだが、純子はそれまでに関係のあった五人の男すべての家の前に、同じ花を置いていた。
 幸か不幸か、わたしはそのことを小説に書くまで知らず、それ故に、純子は死に旅立つ直前、わざわざ花を持ってきてくれたのだから、わたしを一番好きだったのだと思いこんでいた。むろん他の男たちもそう信じて、疑っていなかった。
 さらに彼女は肺結核で喀血したことがあるといい、接吻をしながら、わたしはうつるのではないかと怯えていたが、それも偽りで、結核は自由に学校を休むための口実でしかなかった。
 むろんわたしはいま、純子が残していったそうした偽りに、怒る気なぞ毛頭ない。それどころか、十七、八歳の若さで、それほど人生において演技を重ねたら、余程疲れたに違いないと、むしろ痛ましく思う。
 もう少し暢んびりと、少女らしく素直に生きたらよかったのに。早熟で感性豊かな純子は、一度、虚の世界に走り出したら、もはや止まることができず、これではいけないと思いながら進路を修正する暇もなく、死という大海に飛びこんだのであろうか。
 いま振り返ると、純子はときどき、「死にたい」とつぶやいていた。さらに中学生のときに一度、自殺未遂をしたことがある、ともいっていた。
 死に鈍感だったわたしは、そんな純子の口癖を彼女独特のもの思わせぶりな台詞だと思い、「本当は死ぬ人はそんなことはいわないよ」と冷たく突き放したが、純子は言葉どおりに本当に死んでしまった。
 いまさら悔いても仕方がないが、純子は若くして死を予感し、その死をいかに華麗に、そして人々に深い印象を残して死ぬかということだけを、考えていたのかもしれない。
 いまひとつ、純子についてわからないのは、誰を最も愛していたのか、ということである。
 この点については、純子と関わり合った五人の男性が考えられるが、なかでも最後の男性であったОを最も愛していたのかもしれない。
 しかし純子が札幌を去る前夜、五人の男たちにカーネーションを置いていったように、そのいずれでもなく、純子が好きだったのは、純子自身であったのではないか。
 それは純子の行動のすべてが演技的で、ナルシスティックであったことからも想像がつく。 
 そしてそうでなければ、いっときとはいえ、純子という女に熱中した、わたしの青春を葬ることができないからである。

いま冬の阿寒は、四十数年前、純子が訪れたときとは、すべての面で姿を変えている。
 当時、純子が馬橇で鈴を鳴らしながら阿寒へ向った道も、いまは広い国道として舗装され、冬でも手定期バスが通っている。そして白一色だった雪原には、餌付けされた丹頂鶴が舞い、まわりに近代的な牛舎や家々が点在する。
 さらに純子が最後に泊った雄阿寒ホテルもいまはなく、純子がとぼとぼと雪道を登って行った釧北峠も道筋が変わり、広く平坦な国道が峠のわきをつき抜ける。
 道路も建物も、まわりの風景も、まさに信じられぬほどの変貌をとげたが、それでもなお、風雪に耐えて変わらぬものもある。
 それは阿寒の雪の白さであり、一歩足を踏みいれた雪山の峻烈さであり、その冬枯れの樹立の奥に潜む静寂である。
 そして、わたしのなかに残った純子も、十八歳の面影のままいまも変わらない。なぜ死んだのか、わたしはもうそのことを問う気はない。同時に、誰を一番好きだったのかと、きく気もない。
 それより、いま、わたしは純子に訴えたい。
 多くの人々は、十八歳で死んだ君を惜しんで、可哀相で痛ましく、憐れだという。
 だが、十八歳で死ぬことは、悲しみとは別に、かぎりない驕りであり、我儘であり、身勝手ではないか。
 君の死ほど、さまざまな人に、未知と不可解の部分を残しながら、忘れがたい思い出を刻んでいったものはな
い。  
 そんな華麗で贅沢な死を全うした純子を、いま憎いと思いながら、同時に感服し、そして妬ましく思うのは、わたし自身が年齢をとりすぎたせいなのか。
 ともかく、いまもたしかにいえることは、わたしの瞼のなかにいる純子は、いまだに十八歳のままにとどまっている、ということだけである。



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