★2019年に「MDS→AML」になった妻·移植までの日々を夫の目線から振り返ります★
■「IC」4回目の涙
抗がん剤を始めて40日が経った。本来なら各血球が上がる時期(すなわち悪い奴らを駆逐)のはずが…。辛抱強く待ってきたけれど、一向に上がってこない血球たち。
妻も私もここで悪い細胞を減らし切れるかがターニングポイントになることは分かっていた。「万全の状態で移植を迎えたい」。その分、大きなストレスがかかっていた。
「インフォームドコンセント」。 病棟の小部屋の扉にかけられたホワイトボードに書かれていた「IC」という文字。何の略だろうといつも前を通るたびに思っていた…。命の宣告…
妻と私はICで、1クールの抗がん剤で悪い細胞を大きく減らすことに成功した事。そして(通常なら良い細胞が戻ってくるが、妻の造血機能のスペック低下は根が深いため、感染対策も考慮し)このまま退院せず臍帯血移植(造血機能の入替)に向かう事。を伝えられた。
そして続いた今回の移植についての詳細。「どの抗がん剤をどのくらいやり、どのように移植をするのがベストか」。恐らく先生たちは話し合い考え、悩みぬいた末に決意してくれた事がひしひしと伝わった。
そして…。
「『造血幹細胞移植』は、起死回生の治療法。ハイリスクハイリターンだが(でも行ける)」私はいつも含みを持たせながら話す冷静沈着な主治医の声が若干上ずったのを見逃さなかった。
そして最後に、これは伝えておかなければいけないので…。と年齢、コンディション、移植ソース、様々な条件に照らし合わせた移植の成功率や生存率が包み隠さず彼女に伝えられた(50%)。
1時間余りのICが終わり、病室に戻った時には既に18時を回っていた。無造作にキャスターの上に置かれた夕飯のハンバーグを見つめながら、妻は泣いていた…。
妻の胸中を測り無言を貫いていた私に「子供たちが待っているから帰ってあげて」と言った。
いつもは笑いながらバイバイだけど、この日ばかりは違った。妻に帰宅を促された私は、もう後戻りはできない、でも絶対乗り越えられるはず。
冬支度を始めた街の喧騒の中で自らを奮い立たせながら歩き続けた。