瀧本先生のラジオは毎週月曜日の23時からと、毎週土曜日朝8時から再放送されます。
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死についてです。
先生:「自分の年齢が若かったから、れい子の死を我が事のように捉えるのではなくて、自分の人生と分けて自分は明日もあると考えると思うの。そうではなくて、こんなに早く命を閉じるという事が彼女の身に起きているということは、あなたの身にも起きるのよね。
いまの生き方で大丈夫か。朝起きてから夜寝るまでの貴重な1日を過ごしたのであればその時間の刻み方をよく見る。どの時に命が止まるかわからないということを常に意識しながら尊い時間を歩むという事を今一度彼女の在り方を見て、自分の人生に完全に置き換える時間なの。
今までは当たり前だと思っていた明日はれい子にはない。彼女は明日はあると思っていた。それは今日我が身かもしれないというのが真実。であれば、人と喧嘩してしまいそうでも、自分が発した言葉が最後になる時にそれを言いますか?言わないでしょう?
今から言わんとするその言葉が最後になっても大丈夫かを考える。ほとんどが最後に言わなくてもいい事。多くの方をお見送りさせていただいているけれど、皆さん後悔している。まさかあの言葉が最後になるなんてって泣き崩れてる方が多い。
だから、若くして命を閉じたれい子を見て突然死はやってくる事を噛みしめる。そういう事を供養というの。共に養われると書く。故人に手を合わす事が供養じゃない。故人の在り方を見て我が人生をいかに豊かに、大切に、感謝を思い出すかという事を共に養っていく事を学び得る時間が供養なのよね。そういう意味で私は供養できたの。」
区切りがいいのでこの辺で![]()
手を合わす事が供養ではないと以前ラジオでお話しされていて知っていましたが、できていなかったという事が今回よくわかりました。今も供養中です。
仏教を伝えると宣言されてからの闘病生活。なんと宇宙は酷いんだろうと、そして何も宣言していない私が平凡に生きていていいのだろうか?とも考えました。なぜ私は生きているのだろう?と。
共に養っていくのが供養という言葉を聞いて思ったのは、私は共に養っていただくほどの在り方をしていないなと。人様が私が死んで学んでいただけるような生き方をしていないというか、、、
話は変わって、れい子さんの葬儀に参列してから変わった事が1つあります。それは自分の体をケアするようになりました。自分の意思と体は別物だと認識できたからだと思います。
ケアと言えるかどうかわかりませんが、足つぼに通うようになりました。どこを押されてもメチャクチャ痛い。他のお客さんは気持ちよくて寝ているのに、私だけ激痛でもがいているので、こんなにも細胞達に負担をかけていたんだなぁと。きっとこういう負担を無視していると急に悪化するんだなと、自分と体を分けて考える事が出来るようになりました。金額は少し高いけれど、今までの無駄遣いを考えたら安いものなので暫くは続けようと思います。