瀧本先生のラジオは毎週月曜日の23時からと、毎週土曜日朝8時から再放送されます。

下差しこちらのURLからラヂオきしわだのラジオが視聴できます。

http://www.radiokishiwada.jp/simul/

 

 

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田舎に嫁いだ方のご相談です。

 

 

先生:「仏教の教えでどの様に言ったらいいのか。お釈迦様は世間の人は盲目であると仰っているの。まるでそれは鳥が縄にかかってその縄から逃れ出て大空に生還することが少ない様にと。この盲目であるという意味は、真理が見えていないという意味なの。鳥は翼を羽ばたかせる生き物でしょう?網に絡まって飛べなくなったら、私は鳥だから羽ばたくのが当たり前といって、羽ばたくと余計網に絡まる。つまり、大勢の意見に流されるな!という言葉なの。

 

みんながそうするから〇〇をしなければいけない。多数決ではないけれど、人は大勢の意見に巻かれて生きている。対社会と関わる時には対社会のルールに従ったらいいと思う。対社会と対個人の境界線を明確に持っておくことが必要。

 

仏教は境界線という言葉をよく使うの。仏教は民主主義を否定しているわけではない。国を収める政治体制においてはお釈迦様は民主主義を認めている。けれど、個人的な生き様はそうはいかない。

 

私がこのご相談を読んで思ったのは、例えば瀧本でいうなら、対社会の瀧本は法事で袈裟を着る時にピアスをして出たことがない。それは民主主義よね。けれども、袈裟を脱いでオシャレして出かけるときはピアスをする。個人的な生き方と対社会の境界線をしっかりと引く。

 

ほとんどの方が、個人的な自分の境界線で社会に関わろうとする。社会の境界線を自分の方に引き寄せすぎたりして苦しむ。生き様に関しては、年美ちゃんが言ったように自分が手放せないなと思うものは手放さなくてもいい。対社会に出るときは改めて、対個人に戻るときはそっちでいいと思うの。

 

それがお釈迦様が仰っている社会性の民主主義と個人的なものは違うということだと思うの。対社会において外に出るときは髪を1つにまとめればいい。家に帰ってきたら好きなように髪をセットしたらいい。お友達が来る時は家の中で招いたらいい。カフェでお茶をするときは友達も髪を1つにまとめてもらうように頼んだらいい。それも1つの楽しみで体験させたらいいと思うの。」

 

 

年美さん:「そうですね。」

 

 

先生:「なので、お姑さんをどうやって言いくるめたらいいかとか、旦那をどうやって動かすかではなく、自分が対社会においては郷に従う。自分の世界においては好き勝手にするといいと思います。それは田舎だけでなく都会でもあります。」

 

 

区切りがいいのでこの辺でバイバイ

 

 

田舎暮らしだと、鍵も開けっ放しだし、何の連絡もなく勝手に近所の人が訪ねてきたりするから、家で好きな髪型できないんじゃないのかなぁと思いながら聞いていました。ペティキュアくらいなら靴下履けばいいけれど、マネキュアは急な訪問だと大変だからはがすタイプがいいのかな?

 

 

対社会と対個人の境界線のお話ですが、最初聞いたときは意味がよくわかりませんでした。自分的にはちゃんと社会に順応していると思っていたので、社会と個人の境界線がきちんと分かれていないと聞いたときは意味がわからなかったです。

 

今は、個人の私で社会に関わっていたなと気づけたから良かったけれど、会社でトラブルを起こしている人は大体が、この境界線がきちんとできてない人ですね。年上だから出来るとか、新人だからできないというような年齢や経験の多さも関係ない。

 

出来る人はできているし、できない人は幾つになっても出来ない。

そう考えると年齢って意味ないですよね。本当にそう思う。子供でできている子を見ると、その子の方がよっぽど先輩だと思う今日この頃です。