瀧本先生のラジオは毎週月曜日の23時からと、毎週土曜日朝8時から再放送されます。

下差しこちらのURLからラヂオきしわだのラジオが視聴できます。

http://www.radiokishiwada.jp/simul/

 

 

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葬儀についての続きです。

 

 

 

先生:「火葬場に行った時は肉体があったけれど出てきた時は骨になっている。そうやって徐々に死に絶えていくことを実感する。その順番がある。初七日があって四十九日があって一週間ずつその方が亡くなったことを身にしみさせながら拝んでいく。やっぱり突然亡くなっちゃうと実感が持てないからね。

 

実感が持てないとその方の人生はそこで時間が止まっちゃうのよね。だから少しづつ心が受け入れていく。この世の諸行無常の儚さを少しづつ受け入れていく。自分もいずれもそうなる。大切な人の命から自分の命も大切にしなくちゃとシフトして、百箇日法要があり、それが一年後、三年後、五年後となる。

 

その時にまた親族が集まってちょっとずつ年老いた親族同士が会って、亡くなった故人のところに集まって自分の人生の諸行無常を感じ取っていくというのが供養。

 

だから、2つの大きな意味がある。だから供養というのは意味がないですか?という質問だけれども、何を目的にしているのかで違う。全く意味のない供養というのは、手を合わせることによって、生きていた時に悪いことばかりしていた故人があの世で地獄に行かないようにと願う供養は全く意味がない!!

 

 

 

年美さん:「私たちがここでコントロールできることではないということですね。」

 

 

先生:「そうそう。その方が積んだ因によってその人が受けるので、他人が祈ってどうにかなるものじゃないの。その人が成仏できるようにとか、ランクアップを願うのは全く意味がない。

 

その人が大切にしていたことを受け継ぐ、または自分が受け入れ難い時に少しづつステップを踏むことによって受け入れ、自分の命の尊さに気づくということが供養なの。だから、そういうことを仏教で教えてくれている。そういう事とは何かというと、命の尊さのこと。いづれ死ぬからこそ今大切なことをやりましょう。今大切なこととは何か?大切だと思っていた人が大切にしていたことを自分が引き受けていくことがすごく大切なの。

 

例えば、年美ちゃんが亡くなったら、娘が『母はパン焼くのが好きだったから私もやろう!』というように、年美ちゃんが大切にしていたことを引き継いでいくはず。そして、娘はワンランク大きくなる。そういうことだと思うの。」

 

 

今週のラジオ内容はこれで終わりですバイバイ

 

 

葬儀の時に、お金をかけて法名をつけてもらうと思うのですが、それもあまり意味がないということなんでしょうかね。私の場合、無縁仏に入れてもらおうと思っているので名前はなんでもいいんですけどね。

 

話は変わるのですが、私の年齢で女性で独身だとなかなか家を借りれないとニュースで見ました。孤独死の可能性があるかららしいのですが、大家さんの気持ちになったらわかりますよね。昔は事故物件は嫌だと思っていましたが、私も事故物件を作る側になるかもしれないので、なんだか複雑な気分です。

 

病院で死ぬのもお金がかかると思うので、道で電信柱に頭ぶつけて死ぬくらいが丁度いいかなぁと思い始めています。

 

人間もゾウのように死期が近づいたら自分で察知して、死に場所に自らいくような仕組みになっていたらいいんですけどね。

若い時の悩みは今振り返ると死ぬことに直結していなかったから浅い悩みだったなぁと思います。