瀧本先生のラジオは毎週月曜日の23時からと、毎週土曜日朝8時から再放送されます。
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供養についてのお話です。
先生:「供養ってなんだと思う?供養って目の見えない形になられたその方の残像(エネルギー)、その方との関わりや色んな事に感謝をする。そして自分の生き方を問う事って講演会でいつも言っているんだけど、供養という文字は共に養われると書くでしょう?
だから共に養われるの。亡くなった故人の方に対して想いを馳せる事が供養ではなくて、共に養われていく。いずれ自分も肉体を手放していくときに、今のあり方で本当にいいのか。まだ何かにこだわっているのではないかとか、常に問い共に肉体を手放した方と養っていく。それが供養なの。
自分のことを横に置いてご先祖の方ばかりを考えて供養したりする。仏壇の前でお願いだけしてはいけないのはそういうことなの。お願い事というのは煩悩の中身だよね?」
年美さん:「そうですね
」
先生:「なぜお願いことをしてはいけないのかというと、あちこちで持っていたお願い事を手放す場なんだよね。特にお家に仏壇がある方だったら、そこで手を合わせるのは、『おじいちゃん、〇〇になって欲しいの
頼むから力を貸して
』とお願いするのではなく、
そうなって欲しいと思っているその事が
そうならなくても受け入れられる自分にしてください
という事なの。共に養われるというのはそういう事なの。物事が自分の思い通りに運ばれるような願い事、つまり煩悩をむき出しにする場ではなく、どう転んでも今の自分にふさわしい形を与えて頂くんだったらどっちになっても構いませんという宣言をする場なの。」
年美さん:「勘違いしてました
」
先生:「お釈迦様が仰る無明の闇。みんなが抱えている病気。そこを捉えると、ちょっとした事で悩んでモジモジしている自分なんてどうでもいい。だって、目の前の悩みも諸行無常で変わっていくからね。ただ、忘れてはいけないのはこの世は諸行無常という事なの。」
年美さん:「この世は諸行無常ですよね?」
先生:「あの世っていってないの。」
年美さん:「え
あの世は諸行無常ではないから持っていった心でずっといくという事ですか
」
先生:「そうなの。厳しいでしょう?だから、今の幸せをちゃんと見れる人間にならなくちゃいけない。今自分が与えられている色んなものに、”これで十分です。ありがとう
”というような足るを知る心を養って、全ての状況にありがたいとちゃんと思えていく心を仕上げておかないといけないの。」
区切りがいいのでこの辺で![]()
私だけかもしれませんが、幼児虐待でも監禁でも人生の大半を、虐げられた状況で過ごした子は半分以上、悲しみや苦しみや痛み、恐怖の人生だと思うんですよね。そういう子は死んだらやっぱり恐怖の感情のまま後生も過ごすのだろうか?そうだとしたらあまりにも酷いなと思ってしまう。そういう人生になるのも何か理由があるにせよ。死んだ後ぐらいは恐怖から解放されて欲しいと思ってしまう。
私が阿修羅のような感情のまま後生を生きるのはしょうがない。だってそういう事をしていたのだからね。後悔するかもしれないけれど納得はできますね。