瀧本先生のラジオは毎週月曜日の23時からと、毎週土曜日朝8時から再放送されます。

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今週はれい子さんのお話からスタートです。

 

 

 

れい子さん:「先週息子のお友達のお葬式に行ってきてそのお母さんはまだお葬式なので泣いたりしないで笑顔でみんなを迎えていて私だったらできないって思ったんです。きっと息子が死んだら私は死んでしまうかもしれないって。先週お釈迦様は自分の息子の命と野に咲く花の命の区別がないって仰っていましたが私は出来ない。息子が死んだら私も死んでしまうと思ったんです。そう思った時は潔く死んだらいいって思ったら逆に安心したんです。その時になったら考えようって思ったんです。」

 

 

先生:「今からお守りになるような話をするからね。大切な人が亡くなった。例えば自分の子供や親しい人が亡くなった時に生きていけないんじゃないか。その時は死んだらいいその時考えようってれい子が言った。その捉え方は今の時点ではOKだともうけれども本当にその日がきてしまった時に心の持っていき方がわからないよね?

 

生きていけないから自らの命を絶つという方向の選択肢が何%か出てくる可能性もある。その時に必ず思い出して欲しい言葉ある。究極に苦しい状態になった時に人の言葉はもう入らないから、今自分が平穏な時期にいざという時の為のここのお守りを先に入手しておく必要がある。

 

そうすると心がペチャンコになっても思い出すということができる。心がペチャンコになった時に新しい言葉を聞き入れることが出来ない。今みんなが平穏でいられるこの中で聞いておいたほうがいい一行は何かというと、大切な人が亡くなってしまった時もちろん後を追うような思いになるかもしれない。けれどその時に考えて欲しいのは、その亡くなった方は生き残りたかったよね?ということを、生き残りたかったはずだという事を必ず思い出してほしい。

 

 

 

生きたかったはず。そこが無念になったわけだよね?その方が生きたかった命を自分が今持っているにも関わらず、その人を想うあまりに後を追うということがどれほど相手に失礼なことかって事。どうやってでも生き延びたかったその日を今私たちは生きている。

 

 

 

今日はその人たちがどうやっても生きたかった日なの。何気に生きているけど。どうやって生きていけばいいのか思いつかないとか、今は心持ちが見つからないという悩み方はいいと思う。生きていけないというのは違う。その人は無念で命を手放した。あと1日だけでも生きたいとその人が思った一日を私たちは平然と生きているという解釈を思い出してもらうと、後を追うという考えだけはおそらく出ない。」

 

 

今日は区切りがいいのでこの辺でバイバイ

 

 

私は命の大切さがよくわからない。お陰様で病気にならない健康な肉体とあまり人と深く関わらない人間性のためだと思う。病気にならないので”自分が死ぬかもしれない”という実感がない。あまり深く人と関わらないので大切な人という人がほとんどいない。淋しい気もするがダメージが少ないから気が楽なのかもしれないと思っている。

 

あと1日だけでも生きたいという先生の話を聞いて先生自身の声のように思えた。先生は1日1回は息苦しくなると仰っていたのを思い出した。先生のように生き延びたいと思える人生を歩んでいる方はすごく羨ましい。生きたいと思うのは生きる理由が明確だからだろうと思う。私はどうも命に対して投げやりなところがある。この投げやりな所が実生活に出てしまう。

 

よく先生に雑な生き方、雑な言葉遣いと『雑』という表現をされるが命の重みがわからないからなんだろうなぁと思う。私の場合はまず大切な人をたくさん作りたいと思います。