瀧本先生のラジオは毎週月曜日の23時からと、毎週土曜日朝8時から再放送されます。

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昨日のお話の続きからです。

 

 

先生:「仏教には求道者(ぐどうしゃ)という言葉がある。この求道者という言葉あるということは、求めた者だけが見つけられる道だよね?与えられている道ではなくて求める者が見つけられる道ということなので誰かから与えられた価値観とか誰かから押し付けられたスタイルで生きていても人生は苦しくなるはず。人生は自分で求めて見つけ出すという事みたいだなって、お釈迦様の教えにちょっとずつ階段をこの辺りから登り始めたの。」

 

 

年美さん:「そうなると面白くなってきますね。」

 

 

先生:「面白くなかったよ。だってこうやって語れる相手がいなかったから。ノートと向き合ってた。何が正しいのかわからないから不特定多数の作家さんの本を死ぬほど買い込んで読んでた。これは歴史を仏教として書いているな。これは仏の教えじゃないって本を捨てたりした。地味な作業だったあせる

 

 

年美さん:「本当ですね。」

 

 

先生:「その時にどうやったら自分の選び出した言葉が正しいのか。正しいとか正しくないとか判断をしてはいけないとは思うのだけれども、自分の中でこれを追求するっていう追求課題を見つけたかったの。そこで出会った言葉が法灯明と自灯明だったの。」

 

 

年美さん:「!?

 

 

先生:「法を灯し火として生きなさいよ。ここにお釈迦様という一人の青年が非常に素晴らしい事を言われていて”私もいつか人にお釈迦様の素晴らしいこの教えを伝えてあげる事がくるかもしれないから、このお釈迦様のスタイルを絶対に守ろうビックリマーク”と思った事があるの。

 

それは何かというと、お説法を説かれた後に必ず毎回付け加えられていたのが『僕の言ったことをそのまま鵜呑みに信じるな。私は教えを言ったけれどもするかどうかはあたなに任せた。自分で今話しを聞いてみて”よくわからないなショボーン”というのであれば別に実践しなくてもいい。その代わりやってみようと思ったら、それをトコトンなるほど!っと納得するまでやってほしい。そうすると法という灯し火であなたが聞いたものが己の灯し火に変わる。それが自灯明である。』と仰ったの。

 

だから、お釈迦様という人は来る者拒まず去る者追わずだった。そして彼は命令がなかった。話しっぱなしだったの。嫌だったらもう来なくていいよ。今日の話の中で出来るものがあったらやってみてね。やらなくてもいいよっていうスタイルだったの。」

 

 

 

今日は時間がないのでこの辺でバイバイ

 

今日は今流行りのウイルスの関係で時差通勤をしないといけないのでこの辺で終わります。

 

先生の仏教との出会いと勉強された道のりを伺うと本気度というか探究心度が全く違うなぁと思います。私は知っている人から習いたい。つまり、自分で紐解こうという発想すらないのですが、先生はそうではなくて全て自分で解読されて教えを身につけられているので最強だなと思います。

 

よく先生から本気という言葉を聞きますが、私は本気のなり方もわからないというか、そこまで真剣に何かを達成したいと思った事がないのかもしれません。本気になるのはその場から逃げる時とか楽する時くらいだなぁと思いました。本気になれるものが見つかっている人はいいなぁと思った朝でした。