瀧本先生のラジオは毎週月曜日の23時からと、毎週土曜日朝8時から再放送されます。

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希望のお話の続きからです。

 

 

先生:「仏教では希望を持ってはいけないと言われているけれども、よくよくちゃんとお釈迦様の言葉を見直してみたりとか、いろんなインドの長老が書かれている本とかを読むとびっくりよ。お釈迦様ってものすごく自分が今からやる事に希望を抱いていたの。」

 

 

二人:「びっくり

 

 

先生:「そして、希望を抱かれた瞬間がどういう時かというと、今ここに自分がやりたかったやるべき事に少し欠如があった場合にすごく希望を持たれていたの。」

 

 

二人:「びっくりびっくりびっくり

 

 

先生:「それの一番最たるものが苦行をずっと彼が何年間もやっていての。体を痛めつける修行ばかりね。修行僧の仲間は隣でバタバタと死んでいく。そんな中で何年間もお釈迦様は苦行をされていたんだけれども、苦行を続けていた彼の目的は何かと言うと悟りを得る事。生きるという苦しみのカラクリを知り、その苦しみから脱出することができるであろうという前提で苦行をされていた。

 

けれどもそれが達成されなかった。だからさらなる苦しい修行にどんどん自ら行くの。当時の風潮では苦行が足りないから幸せになれないんだって思ったの。どんどん厳しい苦行をしたの。その中にはハゲタカに自分の身を突かせるのよ。どう思う?」

 

 

年美さん:「怖いえーん考えたくないですあせる

 

 

先生:「結局その修行に出た人は全員骨になってるの。ハゲタカが押し寄せてきてバッと空に散った時は骨だけになっていたの。それを見て『彼は苦行を成し得たんだ』って言われていたの。そんな中お釈迦様は”私も長年やっていたけれどもこの苦行は違っていた。これは違っていた”と気づいたの。そこには諦めとガッカリと同時に抱いたのが希望だったの。

 

違うという事がわかった。違うという事がわかるのにこれだけかかったんだ。お釈迦様は落ち込むどころか清々しい思いで苦行をやめたわけ。

 

ネーランジャラー川に入ってそこで体の汚れを取って川から上がってきたところに、ガリガリになったお釈迦様をある娘が見つけて『なんというお姿で苦行を頑張ってなさったんですね。どうかこれを召し上がってください。』と、その一杯の乳粥を食べた事によって、体の芯から冷えていた体を温めて体力を温存してそこから苦行をやめたの。

 

『これは間違っていた。そうれはないやり方があるんだ。』と、自分に対して多大なる希望を抱いて立ち上がられたの。今やっていることのほんの何かの欠如とか、達成されなかったほんの少しの心が次の大きな自分に対する希望を抱く力になるという事を仰っていたの。

 

お釈迦様が何度も何度も局面に立った時には”あぁ、やっぱりこれはダメだったか。であれば次はこうであろう。”というように次に光を見ていた。”ダメだった。あぁ…”ではなくて、これをバネにしてこうしようとなさっていたので、非常にお釈迦様は何度も自分の人生に希望を持ってやっていかれた方なの。」

 

 

時間がないのでこの辺でバイバイ

 

 

ハゲタカの修行の話は何度聞いても嫌な気分になりますね。修行というより拷問とか処刑なんじゃないかと思いますが、苦行している事自体が苦しいのに苦しみから逃れるために苦行をするというのが不思議だなぁと思います。当時はハゲタカに食べられた方がいいと思えるような情勢だったのかもしれませんね。そう考えると平和な時代に生まれてよかったと思います。

 

局面に立った時に希望が見えるというのはすごい。私は”やっぱりダメかぁショボーンもうやめよう”とか、やった事を後悔してしまう人で、何が違うんだろうなぁと思ったら、ここまでやった!と言えるほど何かを達成した事がないなぁと。いつも手前で辞めている気がします。いつも手前で諦めてしまう人はどうしたらいいでしょうかね。今度先生に質問してみたいと思います。