昨日(2019/7/28)東京で法話会があり、その時に今の私にタイムリーなご質問がありました。必要な事なのでUPしたと思います。
(実際の映像はWEBサロンにUPされています)
では、まずご相談者のお悩みから。。。。
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私は親に虐待を受けて育ちました。自分を救うためにセミナーをたくさん受けて来ました。自分を許したり自分を許したりするセミナーを受けに行きました。『そんな親でも許して尊敬しなさい』と言われさらに苦しくなりました。子供を虐待する親を尊敬することはやはりできません。東洋思想ではどのようなお答えを持っていますか?
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先生:「こういうご相談を預かりました。まるでエイリアンからの質問かと思ったわ。実は虐待を過去に受けていてその怒りがやっぱり手放せない。自分が人から愛されるという根本的な自信がない。だから人から愛していると言われても当然信用できない。エイリアンもそうだったでしょ?」
エイリアン:「はい。そうです。」
先生:「いろんなセミナーに行ってそのままでいいと言われたりした。いいわけがない。苦しいんだから、そのままでいいと言われる事がどれほど苦しいかという怒りも書いてあった。明らかなる答えを仏教思想は持っていて、この方が間違えなく心が楽になるだろうと思う。
このご質問は2つに分けて考えなければいけないの。まさにこれと全く同じ質問を当時お釈迦様の弟子がお釈迦様にしているのね。親からどちらかというと痛めつけられて育ち十分な食事も与えてもらえなかった。そういうような人生の育みが自分にはあったのにその親をそれでも許せと言われても私はできないという事を、お釈迦様に縋るように言った弟子がいたの。
その弟子に対して答えていた文献を読んだ事があって”なるほど
”って思ったの。とてもシンプルな答えなんだけど、とてもしっくりしたの。私は少年刑務所とか拘置所の仕事をしているんだけど、少年刑務所に入っている子供達は親に対する恨みつらみ苦しみを他所にぶつける事で犯罪が起きているの。だからその子達を集めた時もこの話をするの。
みんなも一緒に考えて欲しいの。この手のご相談がたくさん来るからなの。おそらく周りを見たらこの苦しみを持っている方が何人もいると思う。
このお悩みは2つに別けて考える。1つは絶対的な関係がある。命をもらったという事。ここは絶対的な関係。ここは逆らえない。命を与えてもらった。この事実はひっくり返らない。もう1つは産んだ後に始まるのが育てられたという言葉があるよね?
ただ、この育てるという事は仏教思想では一般論と違う思想を持っている。命をもらったというのはこれは絶対的な事実。その人から命をもらった。育てるという事に関しては親に責任を仏教は持ちません。」
全員:「![]()
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」
先生:「育てられない人だっているんだから。極端な話産まれた子供を狼が育てたって構わない。他人が育てたっていい。親に対しての絶対的な感謝というか、ありがとうと向くのはこの1点だけです。育てるという事に関しては仏教は親がしなくてはいけないという義務の位置付けではありません。事実その親が育てなくちゃいけないというのであれば、産んだ直後にその母がもしもなくなったら子供も一緒になくならなくちゃいけなくなる。そういう風になってきちゃうよね?
だから、自分が存在しているということはこの1つ目は成し遂げられたことなのでこの事に関しては感謝をする。例え親がどんな形であれ。けれども育てるということは親じゃなくてもいい。
虐待で苦しんでいる、その時の記憶が今も自分を支配していて人を素直に愛せないし、人から愛されたって”なに?嘘じゃない?”っていう恐怖や疑いがある。こんな大人の発言ができるということは大人になっているはずなんだよね?実際に過去に虐待があったかどうかはわからないけれどもそれは子供の頃の話。大人になった今でも虐待されているということは絶対にないはず。
なら忘れたらいい。今の自分には関係ない。
その親が尊敬できるかどうか。そこに対して尊敬という言葉を仏教は使わない。そうではなくて事実として虐待という育て方をする人だったんだ。そんな虐待をした親でさえも尊敬しなければいけないということは仏教は言わない。
そうではなくて恩返しをするという言葉が仏教にはあります。恩返しとはどういうことですか?」
全員:「・・・」
先生:「それは何かというと、親が虐待をするような人だった。他には親が犯罪を犯してしまう親だった。刑務所に入ってしまうような親だったとする。その親を尊敬するのか?尊敬なんてしなくていい。その代わり恩返しをする。何かというとその道は間違っているという事を子供が親にちゃんと教えてあげるという形で恩を返す。
それは間違っているんだよって。それが恩を返すという事。子供の方が正しく生きる見方ができるようになっているのであれば親に対して『それは間違っている。こうするべき。』って指導を入れる事を恩返しって言う。
親が生きていけない。例えばお金がないとか、親の面倒を見なければいけないとか子供が親の面倒を見る。例えばそれが生活費であったりとかお金がこの世界では必要になる。そのお金を親にどんどん出す。『親に仕送りくらいしたらどうなの
』って言う親がたまにいる。自分の生活に支障がなくてできる範囲であれば多少してもいいと思う。
けれども、子供がバイトを掛け持ちして自分の食生活を抑えてでも、自分の生活に窮屈さが出てきても親の仕送りをする必要は一切ない。仏教は否定します。そんなことはしなくていい。それは親の人生の因果である。究極親がそれでも縋ってくるなら、子供のお金を無理矢理でも取っていくような親であれば仏教は縁を切れといっている。縁を切ってあなたは本当に間違っていたという事を行動を持って教える事を恩返しというと仏教は言います。
だから、虐待していた親を尊敬しなくていい。けれども恩は返す必要がある。何に対して?命を与えられた事に対しては。これは絶対的な関係。でも、幸せに育てられたかどうかに関してはそれを今論じることができるほど大人になったのであれば、過去のことを思い出すのが苦しいのであれば忘れるべきである。
そして、親がそこから誤った人生を歩んでいるなら恩を返す。つまり間違っているという事を自分が先に気づく人格を獲得しているのであれば親に教えてあげる。それでも親との関係性が良くなく相手がこちらに依存しているのであれば縁を切ることも恩返しである、という事を2600年前にお釈迦様が仰ったそのままを話しました。少し厳しい言葉が少し含まれていたかもしれませんが、事実そうだと思いますので一度実行されて見てはと思います
」
サロンのお話はここまでです![]()
本当に私にそっくりなご相談だったのでビックリしました。私の場合は両親が自分を産んだことに感謝することができませんでした。こんなに憎むなら産まなきゃいいのにバカなのか?産んだから子供のこっちも苦しいんだよ!って思っていたので、絶対的な関係つまりこの世に産んでくれたことから感謝することができませんでした。というより今も正直できてません。しかし、産まれてしまったものはガタガタ言ってもしょうがないので、ここは諦めることにしました。
そして、今は感謝できなくても時間が経てばできるようになるかもしれないので今は無理に感謝しようとも思っていません。以前セミナーに行っていた時は、その場で感謝しないといけないくらい追い込まれていたので本当に苦しかったのを思い出します。
お話を聞いていてビックリしたのが恩返しの意味が、私が考えているのと違かったこと。私的には仕送りや相手が望む事をするのが恩返しだと思っていました。私と両親の関係性のように破綻している場合は、そもそもお互いに聞く耳がないので恩返しが難しいなぁと思いますし、両親は私との人間関係が破綻しているだけで弟や他の人とはうまくやっている様なので恩返しをする必要はないのかなぁと思います。
幸いにも私の両親はお金をせびる両親ではないのでその点はよかったなぁと思います![]()
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