瀧本先生のラジオは毎週月曜日の23時からと、毎週土曜日朝8時から再放送されます。

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昨日のご質問の続きです。

 

 

 

先生:「二人の意見の通り。教え自体をひっくり返す事はない。問題なのは1なのか0なのか。いい人なのかいい人じゃないのか、その両極性で分けて見てしまっている心の偏りの事。これは二人とも知っておくべき。年美ちゃんはいつも私と一緒にいてくれるでしょ?私を車で運んでくれるしね。年美ちゃんは素晴らしい女性なんだけれども、人が素晴らしい人と見始めているという事なの。

だから、年美ちゃんのちょっとした小さなミスの発言でも人は傷つくようになってきている事を自覚しないといけない。」

 

 

年美さん:「はい、、、」

 

 

先生:「相手が三井さんは素敵な人だラブってカッコでくくっている相手の方にも問題があるのよ。三井さんってこんな一面があるの!ショックガーンって、そういう人ほど思ってしまう事がある。でも、我々はそういう風に人を見てはいけないという事を覚えておかなくてはいけなくて、例えばこのような方の心の働きってみんな持ってる。昔のアイドルはトイレに行かないとかあったでしょ?」

 

 

年美さん:「ありました。ありました。」

 

 

先生:「そんなわけない。トイレにも行く。特にお坊さんの方は聖職者として神聖な感じと仰っているけれども、人の苦しみを拭ってくれるようなお坊さんの所に行って落ち着くと仰っていたけれども、例えば瀧本のところにたくさんの方が相談に来られるのは半分近くはお坊さんなの。」

 

 

年美さん:「お坊さんが来られるんですか?」

 

 

先生:「じゃぁ、その人失格ですか?っていう話なの。お坊さんが悩んでいて『瀧本上人はどう思いますか?』って相談のメールや電話が来るの。そういう人の心が専門分野だと人から思われているお坊さんが自分の事が解決できなくて悩みの相談に来るということはその人も失格ですか?そんなの悩むに決まってるよね?

 

私が思うにはここのご住職の方は間違いなく立派な方。なぜかというと神聖な人にずっと見えていたということなのね。相当律していたと思うの。自分のことを。お寺の勉強会に行って”素晴らしい。神聖な方”って人が思えるということはかなりこの方は自分を整えている人だと思うの。まずそこを間違ってはいけない。

 

一目会った時から人として”この人嫌だな”って思う人もいるのに、何度もお勉強会に行って”次も勉強しよう音譜”って思えるっていうことは、間違いなくこのご住職は立派な方だと思うのよね。

 

ところが、自分を女性として『夜ご飯行かない?』って言われると確かにショックかもしれないんだけれども、これは皆さんすごく勘違いされるんだけれども、我々僧侶はもちろん戒律があって。戒と律はバラバラなんだけれども、戒は個人的に守らなければならない事、律というのは集団で守るもの。戒と律で戒律。個人的にも団体的にも守るべきものというのが当時のインド、お釈迦様がいらっしゃったインドではすごく厳しい沢山の戒律が僧侶には与えられていたわけ。それを守っていくからお坊さんは立派だというような解釈を一般的にはするのね。

 

そんな厳しい解釈がいっぱいある所に自ら身を投じる。それはすごく決心があって悟りを得るために自分の決心が揺るがないように家も捨てて全部捨てて修行に行くという事はすごいと思ってしまう方向が大間違えで、基本的に戒律はなんであるのか。なんでこの戒律が作られていたのかというと、修行僧というのはそこまで愚かだから戒律が作られたの。逆なの。」

 

 

年美さん:「逆なんですね。」

 

 

先生:「逆なのよ。本当に戒律はなんのためにあるか。それほどの数の欲があるから、こういう時はこうしたらダメ!というように欲があるからそれを全部押さえこむために、それだけを箇条書きで書き出した物を提示しないと修行中に悪さをするからだから戒律が作られた。

 

だからお坊さんという人が聖職者というわけではなく、ただ一番自分の心を律しようという志は高いかもしれない。そういう意味では。誰だって欲は当然ある。熱心に勉強していたら夜食事に誘われてしまった事にショックなのはすごくよくわかるけど、もう1つこの方に私が言いたいなと思うのは、その人の事をよく知っていますか?という事。これは私たちもすぐに人を判断してしまうところがあるけれどもその人の事をよく知っているか?という事なのね。」

 

 

 

区切りがいいのでこの辺でバイバイ

 

 

その人のことはよく知らないけど、自分にとって不都合な事をした人は周りから見たら聖者かもしれないけど私には悪人になりますね。周りがどうかなんて関係なく自分がどう思うかの方が大事。ただ私がいい加減なのは、その不都合な事をした人もランチを奢ってくれたりとか、仕事を代わりにしてくれたりとかしてくれると、急に私の中でいい人判定が下される事。だから、私はいい加減だなぁとよく思う。

 

あと、私はあまり人に好意を持たない人だから、相手の人が自分が想像しているような態度でなくてもあまりショックに思わないからこの手の話には傷つかないのかもしれない。不思議とこの相談者の方が羨ましいなとさえ思ってしまう。やっぱり私は変わっているのかもしれないなぁと思います。