母から言われてた言葉。言った本人は覚えていないと思うが、何回か言われていて今でも思い出すくらい私の心に突き刺さった言葉。どんな時に言われたかというと、小学4年か5年の授業参観の後に言われた。母は「あなたはイジメられているの?」と聞かれ、私は「そんな事ない」と答えた。本当にそうだとは思っていなかったから。私にとっては家の方がよっぽど辛かったので、学校で起きている事なんでどうって事なかった。
すると、母は「あれはイジメだと思うわ。でも、お前がなんとも思っていないならいいわ」と冷ややかに微笑んだ。当時の私は体も小さく身長が母の腕くらいしかなかったので、母を見上げてみていたが、その冷酷な微笑みにゾッとした。小さいながらも”それおかしくない?子供がイジメられていたらどうにかするのが親じゃないの?”と思ったし、いつも母は寝る前に「学校で何かあったら必ずお母さんが助ける」と言っていたので信じていた。
でも、実際は違かった。親から裏切られた瞬間と同時にこの人のことは信用出来ないなと思った。母からこの人と呼び名が変わった瞬間でもある。
まだ、それだけだったら良かったのかもしれないが、その冷酷な微笑みの後に
「わかるわ。だって、もし私が同級生だったらお母さんもお前とは友達になりたくないもの」
と、当時の私にはトドメの1発が突き刺さった。きっと今でも突き刺さっているんだろうと思う。この時だけでなく殴られている時もよく言われていた。なので、私は<友達>というものに固執している。私には友達がいないということに。。。
瀧本先生の法話会に行くようになり私に声をかけてくださる心優しい方も現れ、私が「友達がいない」と言うと「いるじゃない」とよく言われる。私の頭は![]()
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がいっぱい。どこに居るんだろう?きっとみんなと見えているものが違うんだと思った。そもそも友達ってなんだろう?
私は年上の方に親切にしていただいている。私からすると信頼できる相談者なので私のような人間が友達と言っていいのだろうか?では、同年代は?というと同年代で相談できる人も気軽に会うもいない。なので、私の友達がいないというのは、きっと同年代で気軽に話せる人がいないという意味なんだろうと思う。
そして、私の周りの人はない方に目を向けているのではなく、私に年上の相談できる方が多くいるのを見て「いるじゃない
」と、ケラケラっと笑いながら肩を軽く叩くのだと思う。
書いていて思うが、友達がいるって言っている人がいるんだから、友達がいるでいいじゃんって思う。なんでそんな頑なに友達がいないといい続けなくちゃいけないのか?ここで母が登場するわけです。憎き母です。”あの母が私が傷つくことを言ったから”と。
全く関係ないですけどね。そやって自分が出来ない事の原因として結びつけて、自分が出来ない事を正当化する。この事を書けている事がすごい事。瀧本先生と出会うまでは、本気で母のせいだと思っていたし、自分の生きづらさの原因と無関係だとは全く思っていなかった。
確かに常識的に考えて母が言った言葉はおかしいが、その言葉を信じているというか今もなお引きずっている私もおかしいなと思う。
じゃぁ、友達がいると言えばいいじゃん?と思われると思う。それがなかなか出来ない。それは、私の中で<嘘をついてはいけない>というルールがあるからだ。事実と違うことや自分で思っている感情と違う事を発言する事を私の中では嘘と呼んでいて、その事を言って相手から嫌われるよりも、嘘を言っている時のモヤモヤ感の方が嫌だし、スッキリする事の方が私だ大事なので、同年代の友達がいないと思っている私が、思ってもいない事を言うのが辛い。
なので、考え方を変えて友達がいる人を演じてみるのはどうだろうか。と考えてみた。確か瀧本先生も賢者になりたければ賢者のように振る舞うようにと仰っていた。友達が多くいらっしゃる人のように振舞ってみよう。今まで友達が多くいる方は嫉妬の対象で僻みくらいしか言ってなかったけど、どういう振る舞いをしているかとか今度観察してみようと思う。
こういう考え方ができたのも過去に固執しなくなったからだと思う。随分楽になったなぁと感じる今朝でした![]()