死ぬ事が怖い人もいる。確かに私も怖いが’死’という事に脅迫されている怖さではない。私の場合は逆で何で生きているんだろう。生き延びてしまったんだろうという虚しさの方がある。だから、不謹慎だが”いつ死ねるんだろう”と思いながら生きていた。”死んだらこんな辛い経験しなくてもいいのに。。。”と思っていた。だったら、死ねばいいじゃないかと思われるかもしれないが、それはそれで怖くてできない。どれも痛そうだし苦しそうだからだ。

 

 

今生きたいと心底思っている方からすると”ふざけんな!”という意見なのもわかる。だからこそ、私の命でいいのなら代わりたいと子供の頃からよく思っていた。生きたいと思う方の方が私より生きる価値があると思っているから。

 

 

私の人生楽しい事もきっとたくさんあったと思うが、記憶に残っているのは嫌だったり辛かったりイライラする出来事ばかり。多分私は楽しいプラスの事よりも、マイナスの事を記憶に残す方が好きなんだと思う。

 

 

こういう考えをしている私はいつも親を恨んでいた。何に恨んでいたか。

 

 

 

私を殺さない事に

 

 

 

そんなに私を殴るなら、いっそ殺してほしいと思っていた。本当に。死んだらこの痛みだけで終わるのに、生きているからまたこの痛みが続く。。。自分で死ぬ事もできない。親も当然私を殺さない。

 

 

 

だから、瀧本先生にお会いする前の私の口癖は、ちょっと嫌な人がいると「死ねばいいのに」とボソッとよく言っていた。今は言わなくなっているので、私の中で何かが変わってきているんだと自分でもわかる。

 

 

 

さて、私がなぜこの事を書いているかというと、先日の瀧本先生と美千子さんのピアノコンサートで、先生がある受刑者の方との面談をされた時のお話をされていたから。メモが取れなかったので私の記憶が正しいかわからないが私の記憶では、その方は両親から虐待を受けていて、体に熱湯をかけられた事もあり体に火傷の痣もある人で、その痣を見るたびに親への憎しみがフツフツと込み上げてくる方だったそう。”なんてひどい親なんだ!恨んで当然だ”と思いながら聞いていた。でも、先生とお話をされていてその方はある事に気付かれたそう。

 

 

 

 

私を殺さなかった。だから私は両親に愛されていた

 

 

 

と、殺す事もできたのに私の存在を消さなかった。だから私はここにいていい存在だと。

 

 

 

 

すごい解釈だなと思った。体に消えない痣があるにも関わらずそんな事を思えるなんてなんて立派な方なんだろうと思ったし、逆に私は話を聞いている間、”私は逆で、私の存在を消さなかった事に対して恨んでいるだよなぁ。きっと私を殺さなかったのも、私のためではなく世間体の為なんだろう。だからより恨んでいるんだよなぁと思っていた。

 

 

 

その方が私と同じと言ってはその方に失礼だと思うのだが、1つの出来事でそこから自分が存在してもいいと気づく人と、私のように恨んでしまう人。しかもその恨みを引きづっていましたしね。。。こんなにも違う。

 

 

 

さて、なぜ私が恨みを引きづっているか。それは不幸でいたいから。私が不幸でいないと両親から愛されないと思ったんでしょうね。殴られる事が両親からの愛だと、罵倒されるのが愛だと思っていた過去の私はその屈折した愛を手に入れるために、殴られても罵倒されるに値する人格を創りだしたんでしょうね。無意識で創り出したのが両親を恨み続ける不幸な私。でも、意識は殴られたくないし幸せになりたい。だって痛いからね。

 

 

この事を冷静に分析できたのは瀧本先生の仏教のおかげ。他のセミナーでは私は反発して理解できなかった。でも、先生のどのお話で私がこうやって気づけるようになったのかがわからない。何がきっかけだったんだろう????

同じように悩まれている方がいるなら話をしたいと思うがどう話していいのかわからない。。。

 

 

取り留めのないブログになってしまいましたが、先生と美千子さんのピアノコンサートは本当に私に気づきのある時間でした。

5月に東京で開催予定ですのでハッとする体験をされたい方はいらっしゃるといいと思います照れ