では早速昨日の続きからです。。。
先生:「そうそう。ちょっと話をしてあげようと思ったことがあるの。エイリアンのブログを読んだ読者から質問をいただいたの。好事不如無=こうじもなきにしかず=ってちょっと前にブログで書いたの。
嫌なことがあったらなかったらいいのになって思う。辛いことがあったらなら人って苦しくなるでしょう?ところが、自分の好きなこと喜ぶこと望ましい事も仏教的にはない方がいいんですよって事なの。
何か好ましいことが1つ起きると次もそれが起きてほしいと思ってしまう。そのことが起きなかったら余計に腹がたつ。せっかく好きなことが起きたからそれで喜んでいたらいいけど”あれ?どうしてこうしてくれないんだろう?”とか、この間ポンちゃんこうしてくれたのにとか、そういうように”次にこの人がやってくれるはず
”っていう、そういう期待や執着が生まれるくらいなら元々好事つまりいい事なんて起きなくていいんですよ。なのにみんな、いい事起きてほしい。なんかラッキーな事ないかなって思うけど、変な表現かもしれないけど、ラッキーな事を1回きりの使い切りのように味わって楽しめて終わるならそれでいいけれども、1回それが起きることによって期待が始まるというか執着が始まる。それが叶えられなかったらすごいストレスになって怒る。
だったら、望ましいことも起きなかったらいいのにな。どうしてそんなに好ましいことを望むのですか?っていうのが好事不如無っていう意味で、エイリアンのブログを読んだ方から『先生どう思いますか?』っていうので質問が来たの。悪いことじゃないのよ。
それで好事不如無って、私の方のブログで遠回しな答えとして出したの。」
エイリアン:「どんな質問だったんですか?」
先生:「私のノートに書いてあるからここにはないのよ。カズそのブログ読んでみて。(ブログはこちら)」
(カズさんがブログを朗読してくださいました)
先生:「エイリアンのブログのどこかを読んで、『じゃぁ、嬉しいことはない方がいいんですかねぇ』みたいな質問があったの。で、質問が来た時の回答をしようかと思っていて、その時にたまたま受刑者の面談日だったの。ちょうど受刑者の方と同じような話になって”こうやって回答しないといけない話は、こうやって色々集まるんだなって。1つの回答でOK”って思ってあれを書いたの。
なので、やっぱり私たちって気をつけておくべきで、喜びを求めているけれども喜びがもしも起きたら、使い切りと思いましょう。またコレが来てほしいと思う、そこの煩悩が同時に生まれているんだけれども、こっちは削ぎ落とさなければ”うわぁ、こんな嬉しいなぁ”と思ったら、次の瞬間には不幸の種まきをしているようなもので、執着が生まれちゃうとね![]()
だから、それだけを今回限り最初で最後の幸せと思ってじっくり心をそこにおいて味わいきるっていうようにしておくと、毎回新たにやって来た喜びごとはその都度ビックプレゼント。そこに対する期待値を同時発生させていくとなんか辛くなっていくの。
自分の心のことをちゃんと相手に伝えてわかってもらったり相手のことを受け止めれたり、この喜びさえも次もわかってくれるかもという期待をもたない。今日は受け止めてもらえた!嬉しいなぁ
って一回づつ終わらしていく。人は意見のぶつかり合いに一番苦しむ。相手にバンって言っちゃうのは、相手に対しても自分に対してへも悲しみかも知れないから、言葉が悪いかもしれないけど”受け入れてもらえた”とかは1回づつの使い切りだと思って、毎回新しく見ていったらどうですかっていう感じ。さて、お時間になりましたのでこの辺で
」
今日でこの週のブログは終わりです![]()
確かにいいことが起きると、また同じことをすれば良いことが起きると思って期待してしまいますね。そして、良いことを期待することは未来へのイメージになるから、逆に良いことをしているんだと思っていました。いろんな本にもそう書いてあったような気が。。。読み間違えましたかね![]()
今思うと確かに私がしていたのはイメージではなく執着でしたね
そりゃ実現しないわけだわ。。。
今日はちょっとまだ眠たいのでこれから仮眠して仕事に行きたいと思います
良い1週間を![]()
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