人に話す。あるいは沈黙する。私たちは意識的に、このどちらかを選択する。話したい相手に話したり、あるいは話したくない相手には沈黙するというだけでなく、話したくはないが、話さざるを得ない場面というものが存在する。無論、その逆もあるのだ。
イギリスの思想家トーマス・カーライルの広めた言葉に、「雄弁は銀、沈黙は金」というものがある。これは沈黙すべき時を弁えることの重要性について語ったことわざだが、私のように沈黙すべき時がわからぬ者にとっては、最善ではないにしろ、ずっと沈黙することは次善の策である。
雄弁と多弁は違う。雄弁な人は言うべきこと、言わざるべきことがわかっている。しかし多弁な者はそれを知らない。ただ口数が多いだけで、言うべきことを言い忘れ、言うべきでないことを知らず知らずに口に出す。そして後になって後悔する。これでは人としての信頼などは得られるはずもない。むしろ口の軽い者だとか、デリカシーのない者として蔑まれることは必然である。そのような汚名を被るほどなら寧ろ、押し黙って愛想のない奴とでも言われてしまった方がマシなように思える。
雄弁が銀であるなら、多弁は銅かそれ以下である。そして私はそれしか持たない。
思うに沈黙していて責められることというのは、口が滑って責められることよりも遥かに少ない。軽薄な人間よりは、口が硬すぎたほうが印象は良い。
それに、文章で伝えるということで補えることもある。文章ならば言葉と違って保存が効くから、1日2日ほどかけて推敲することもできる。これならば、思いもしない一言が相手を傷つけることもあるまい。カッとしやすい人間であろうと、その怒りを24時間も燃え盛らせ続けるのは難しいはずだ。
やはり沈黙は輝くもののようである。