人の記憶は嘘をつくという話を聞いたことがあるだろうか。人は記憶を思い出すたびに記憶の捏造を繰り返すため、完全なる事実というものを記録できないというものだ。

それらにおいての『嘘』は、積極的に相手を騙そうとして作り出される嘘というよりは、誤り、勘違いといった類の性質である。AIが起こすハルシネーションに近いだろうか。しかし私の場合、相手を、そして私自身を欺こうとして、lieとしての嘘が生成されるのである。

 

 具体的にどういったものがあるのかといえば、わからない。自分の記憶すらも嘘の情報に書き換えられるので、他人に指摘されなければ、私自身それを「嘘だ」と認識できないのである。さらに、真相はこうだったと言われたあとは直ちに修正され、元々持っていた嘘の情報が忘却されるため、「こんな嘘をついていた」ということも覚えていないのである。しかし、思い返してみると、情報の錯誤により一悶着があった、ということだけは覚えている。そのような事態が確実に数回は起こっていた。これを展開すると、指摘されていないだけで、意図的に欺こうとして捏造された・改竄された記憶というものがもっとあるということになる。これを認識した後、私は自分の脳というものを信用しなくなった。

 

 流石に五感全てを疑うとなると現実生活が送ることができないのでそこは一応の信頼をしているのだが、対照的に、記憶と自己認識については一際に懐疑している。例えば現在私はうつ症状とは言われたが、うつ病と診断書を書かれたことはない。しかしうつ症状とうつ病の違いというものの差異を自らの中で明確に理解できていないため、ややもすると自分が本当はうつ病だったのではないかと思い込み、うつ病についての本や動画を見るようになった。また自己の認識、自己評価と言おうか、それは可能な限り低く設定し、それを高めることがないように細心の注意を払っている。そもそも自分というものを信頼していないので自己評価の上昇が、実際の能力に合致したことなのか自己愛の暴走なのかが峻別できないのである。

 

こういうことを考えていると外に出て歩きたくなる。脳の働きが専ら自己批判あるいは否定に費やされるようになるため、散歩などの運動に脳のリソースを注ぎ込み、自分について考えるだけの余裕をなくすのだ。その作業は言わばマイナスをゼロにする作業なのだが、まるで快楽を得ているように錯覚する。そのため、禁断症状から薬物に手を出す依存症者のように、精神的な苦痛にさらされると反射的に逍遥をしたくなるのである。

しかし外に出ても、しばらく歩き続け、「散歩している」ことを脳が認識するまで、脳は自己否定を続ける。あまりの苦痛に叫びたくなる。しかし素面の私は、狂うこともできずに、苦しみを押し留めながら10分ほど歩き続ける苦行を続けねばならないのだ。