深夜特有の希死念慮にマジ狂い、自分が生きていても社会に貢献しないのであれば元来社会というシステムはそのような個体の生存を保証しないのだと思うと、自分が日本という構造体の中で生存している意味がわからなくなってくる。
考えてみれば、大学のシステムに頼り、親の仕送りを受けながら何もしていない現状は、さながら腐肉に集る蛆のようなものである。社会のリソースを食いつぶしながら、何がしかの還元をしているかと言われたら何もしていない。そもそも入学して早々この様になるならば、合格を蹴ってしまって働きにでも出た方が、私よりも健全な人間のパイを確保することになるのではなかろうか。
あるいは自尽してしまうというのも一つの手ではあるが、いかんせん私はビビりであるために実行し難い。真に他人に迷惑をかけているという自覚があるならばそう言った行為だってできてもいいはずなのであるが、すなわちこれは私が結局は自らの快楽を優先する人間であるということを表す。自らの高慢さを省し憎みながら、それを直すことも精算することもせずに自らの殻に籠るのである。
変えられぬ過去を悔やみ、見通せぬ未来を恐れ、私の中に今というものは存在しない。確実にあるはずのものが私にとり空虚なのである。一体このような私に、将来などという輝くものが与えられるはずがあるだろうか。栄光は来ず、ただ時間のみが過ぎ、私の後ろには後悔に塗れた汚辱の記録が残る。そのような糞の山をひり出すために浪費される未来は目の前にあるが、実体は見えぬ霞のようなものである。客観視してみても、全く度し難い人間である。あるいは私は人間ですらあるのだろうか?
話題は変わるが、考えてみると都会の人々というものはいくばくか、田舎の人間と比較して幸せのように思える。人の母数が多ければ、きっと自らと性質を同じくする人間というものも相応に多いはずである。それらの人員で形成された社会の中で、彼らは同じ傷を共有し、舐め合うことも可能であろう。
三大都市圏の全て・・・とまでは私は暮らしたことがないので言えぬ立場だが、しかし実際に二度ほど立ち寄った東京については、新宿あたりにそのような人間が群れているところを見たことがある。そこを通ったのは午後8時と午前3時あたりなのだが、そこにいる人数はさして変わらなかったため、無宿人もわずかながらいるものと思われる。やはり都市に暮らせば、どのような属性であれ幾らかの仲間と出会う機会を設けられるように思われる。
無論そこにも序列というものが存在するのかもしれない。新宿の某所は私が一見したところ化粧の濃いが顔の整った人間が多数であった。ややもするとそのような場所にも——一度社会が形成されるならば必然的にではあるが——既に社会階層のようなものが存在しているのかもしれない。例えば顔の整っていない私のような存在がその場所に留まることを許されるかどうかは私は知り得ないが、それ以外にも場所というものは存在するのであるから、人数がそもそも多くない地区と比してみれば、明確に「居場所」を感じることはできるだろう。