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      ↑(浅草松竹演芸場・泉ピン子・星セント・ルイス・ツービート)



昭和四十八年頃の浅草は灯が消えたような寂しさでした。歴代のお笑い芸人を生み出した演芸と芝居の『浅草松竹演芸場』も、土日は賑やかですが、平日は閑散としていました。

 私が所属する劇団『くるま座』と『風林火山』という人情時代劇の劇団で十日ごと、交互にトリをとっていました。

 劇団『くるま座』の座長は『橋敬』という人で、座員には『アングラ演劇』出身の人が多く、『日本テレビタレント学院』からは、『じろりん』と『ケンちゃん』(栗原謙次君)が参加しました。時事ネタやブラックユーモアの不思議な芝居をしていました。

 その頃、よく演芸で出演されていた(漫談の)『泉ピン子』さん(漫才の)『星セント・ルイス』さんは若手で売り出し中でした。

 『ツービート』の『ビートたけし』さんは、まだストリップ劇場の『フランス座』で下積みをしておりました。今では映画の『黒澤明』監督と並ぶ程の巨匠になっておられるので驚きです。

 年末のある日、少ないお客さんが一人帰り、又一人帰り、とうとう一人になってしまい、最後のお客さんは帰るに帰れず、我々劇団員とお客さんの我慢くらべのような芝居になってしまった事があります。

 又、ある時は夢中で芝居をやっていると、客席のドアが開いて「あんた達、まだやるの?」と声が客席の後ろから聞こえました。誰かと思ったら、掃除のオバサンでした。そして、よく見ると客席には一人のお客さんも居られませんでした。

 一日二回公演をして、ギャラが三百円(座長は五百円)で、生計は牛乳配達で立てていました。当然、将来の保証は何も無く、未来のスターを夢に、それだけを頼りに無我夢中で一日一日を送っていました。

<時が経って、読み返してみると勘違いや思いこみがあったようですので、原文は変えずに訂正します。

ギャラが三百円(座長は五百円)

という部分ですが、じろりんとケンちゃんだけが300円で後の座員は500円だったようです。

『ビートたけし』さんは、まだストリップ劇場の『フランス座』で下積みをしておりました

という部分ですが、もうすでに下積みを終えて漫才コンビを組んでおられたようです>