今から26年前の1992年4月25日、尾崎豊が26歳という若さで他界した。26年前、今日と同じく私は会社が休みで当時、大泉学園のアパートで一人暮らしだった。そしたら当時勤めてた会社の人間から電話があり尾崎豊の大ファンである俺を知ってて、そいつが尾崎豊、死んだって!と言う。いくら冗談でも酷いと何の嫌がらせかと思って信じなかったがテレビ見てと言われ、はじめて本当に死んだことを実感していく。そしてその電話がきて、しばらくしたら初の尾崎豊、東京ドームライブに一緒に行き4年弱付き合って別れたばかりの彼女からも電話があった。私も尾崎もいなくなってショックでしょ?だって!今思うと良く言えたなwと思う。でもその彼女が大泉学園から転居してから間もなく結婚を前提として挨拶に行った横浜の親戚の家にやっぱ俺と寄り戻したいと連絡があったらしいが時すでに遅しだった😵当時、尾崎が住んでいた千住大橋のマンションや4月30日の追悼式、4万人ファンが駆け付けた護国寺にも行った。後追い自殺者も出てしまった。
以下抜粋。結局、尾崎豊は自殺だった😢

1992年(平4)に亡くなった歌手尾崎豊さん(享年26)が残していた2通の「遺書」が、明日10日発売の月刊文芸春秋に全文掲載されることが8日、分かった。尾崎さんの死については、没後2年の94年に他殺説が浮上。自殺説と真っ向から衝突し、裁判にまで発展するなど社会的に大きな関心事となった。 

「尾崎豊の遺書『さようなら 私は夢見ます』」を執筆したジャーナリストの加賀孝英氏は94年当時に入手していた「遺書」と、尾崎さんと繁美夫人との間のやり取りを、没後20年を前に明かした。 

「遺書」は、92年4月25日、死の間際まで持ち歩いたセカンドバッグに入れてあったという。それには、意識し続け、現実のものとして受け止めた「死」に向かう覚悟がしたためられていた。 

先立つ不幸をお許し下さい。 
先日からずっと死にたいと思っていました。 
死ぬ前に誰かに何故死を選んだのか話そうと思ったのですが、 
そんなことが出来るくらいなら死を選んだりしません。 
(中略) 
さようなら 私は夢見ます。 
死の1カ月後、もう1通の遺書が見つかっていた。 
尾崎さんの母絹枝さんの遺影の脇に置かれていた。 
繁美夫人と1人息子裕哉さんへの愛情を示し、惜別とも取れる言葉が記されていた。 

死後、まもなく私は尾崎豊のファンクラブに入ってて会報に「これからも尾崎豊の魂を守り続けていきます」と私が投稿した記事と私の家の住所が出たら全国から手紙がかなりの件数で届いてビックリした。ダンボール箱📦、2箱分。当時はSNSもない時代だったしね。なかには宮城から14歳の家出人の少女が押しかけてきて、門前払いじゃないけど優しく帰ってもらったら後日、手紙がきて尾崎豊の実家に行って尾崎豊のお父さんに宿泊先を紹介されたと書いてあった。ぶったまげた笑笑 。その数週間前に俺も尾崎豊の実家に行ったらお父さんが子犬連れて出てきて犬の名前教えてくれて握手してくれたから😅

苦い思い出は結局、俺も尾崎豊ファンだけど当時付き合ってた彼女も俺より俺が紹介した尾崎豊が1番に好きだったろうし俺が1番にはなれなかったと言うことかw今日もメス犬2人❓で過ごすこの犬🐶には1番モテるんだけどな笑笑 泣🤣