平忠彦鈴鹿8耐久1988〜1990 | 人は誰も君のブログ

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松山千春、浜田省吾、
昭和アーティストのライブ、作品を中心におもうまま語っていこうと思います。宜しくお願いします。


今回は松山千春から少し離れてオートバイの鈴鹿8時間耐久オートバイレース1988〜1990について。
1985年歴史ある鈴鹿8耐久にオートバイファンに永遠に
語り継がれるであろう伝説が誕生しました。
日本を代表するヤマハの平忠彦とキングケニーと呼ばれ
世界WGP1978〜1980まで3年連覇を成し遂げたヤマハのケニーロバーツが1985年タッグを組み鈴鹿に出場が決定する。

平とケニーは資生堂がスポンサーになり資生堂ヤマハTEC21チームとして予選はケニーが最後の最後にポールポジションを獲得しファイナルもレース終盤まで独走。
優勝は目前でリタイヤしホンダのワインガードナーチームに優勝を許すという劇的なエンディングとなった。ファイナルは16万人を動員し空前のブームを巻き起こした。

こうなると平忠彦の8耐優勝にファンの期待がかかり
平忠彦から目が離せなくなっていた。残念ながらこの伝説の8耐は参加できずに1988年から8耐に参加し平の悲願の優勝を共有したく3年間参加しました。

そして3年目の1990年の鈴鹿8耐、ヤマハ、ホンダで世界WGP4度王者になるエディローソンと現時点での最高のタッグを結成。8耐3度の優勝を狙うワインガードナーをふりきり悲願の初優勝をもぎとる。

鈴鹿のレース終了後の花火は見事で平忠彦の優勝を
見届けた熱い3年が過ぎていきました。

2年目の1989年は平忠彦は同じヤマハの新鋭のジョンコシンスキーとタッグを組みトップを射程距離になるまで追い詰めたところでまたしてもリタイヤ。
参加1年目は平忠彦はマイケルドーハンとタッグを組むが
リタイヤ。マイケルドーハンはのちにホンダで世界WGP王者となりヤマハの平忠彦と組んでた事が凄く夢のタッグと言えたでしょう。