「人の為と書いて偽と読むんだなぁ」と相田みつを。
人の為に善い事を、が偽善。
利己的な意思の元にそういった行いをしたり
または考える人を偽善者。
良い事をしてるが内面では腹黒い、悪なのだという
自覚した気持ちを持っている事、および思慮に欠ける行為。
人の為にすることが「にせ」という意味になる。
偽ってようするにインチキとか、パッと見そのものを
表しているように見せる行為やモノにあたると思うんだけど
いろいろ考えられるんだよね。
実はみんな良い事をする意味は見返りを求めているからとか
ことわざにも「情けは人の為ならず」ってあるように
いつか自分に返ってくる、という。
そもそも人のなすことすべてが実は思慮に欠けている。
どこまで考えていれば思慮に欠けていないのか定義が曖昧だけど。。
そして自分は悪だという自覚の元、行い行為。
日本人的な考えでいくと、悪というのはかつて
「力のある者」という意味でもあった。悪太郎とかね。
つまり自分は力があるから人の為に何かを。。という解釈も
あったりするのかな?と。でも負の力が働いてるイメージもある。
慰安訪問で現地の住民を励ましたり、献血を行ったり、地域の復興支援とか。
決して卑屈に考えるわけではないが、政治家などが良かれと思い行動した事が
イメージアップの偽善行為と罵られたりする。
本来イメージアップの目的もあっての行動かもしれないが、やっている事は
本当に良い事だったりもする。
これについて思慮不足を説くとすると・・・ループしてしまう。
結局、人の為に何かをするという行為には明るい解釈はないのだろうか?
昨今エコを唱える活動が各地で行われており、通っているジムでも
ペットボトルをきちんと再利用にあてるため、指定の場所に分けるよう
呼びかけられている。
これは受け売りですが、エコ活動って環境の為、地球の為というのが
スローガンとされているんだけども、実際は自分たちの為なんじゃないかって。
人の住み良い環境ではなくなってきてるから、そうじゃない地球にしていこうっていう。
地球はそもそも困る困らないとかいう次元ではなく、人自身が困るから人がエコだと
いってるんじゃないかな、って。別に地球は嘆いたり、困ってないんじゃないか。
すごい身近な話でいうとさ、エアコンはなるべく抑えるのが環境のためというけど
極力使わなければ電気代浮くとか。
悪徳な商法や宗教人が他人に幸せを感じさせながら、懐にざくざく金銭が貯まるとか。
なるほど偽をいう漢字を造ったのは当然人間であるし、これは合点が行く。
自然界にはこういう駆け引きないよね。偽モノだとか本物だとかいうのは
人間の作った暇つぶし、ロマンの一種?なのかもしれない。