ホテル着 | Death was the ancient Beast

Death was the ancient Beast

ギター弾き。央のゆびきたす

※長いよ

二日目は朝っぱらから始発バスで向かおうと思っていたのですが、首里城行く途中に個人タクシーのおじさんに話掛けられ、どこからどうして来たかとか明日はどこいくとか話してたら、どうやら自分の計画はあまりに無謀だったらしく二日目は移動全般を頼んだ。
思ったよりはやくついた琉球ガラス工房。体験さえ早く着過ぎて出来なかったが気に入ったガラス製品をひとつ購入。ほどよく土産屋を見た後、今回の本命のひとつひめゆりの塔に。
入口で献花の向日葵を受け取り、献花し手を合わす。
ひめゆりの塔の横には大きい壕が空いており、ここで学徒隊は負傷兵を手当てしたそうだ。中は、傷付いた兵隊の呻き声、血の臭い、排せつ物の臭いで充満していた。頭部に傷を負った兵の中には精神異常をきたす者もいたそうだ。当初配属されたばかりの学徒隊は学校の延長的なものだと思っていたらしく、文房具、櫛や鏡を持ち込んでいたという。だが、勿論そんなものに費やす時間もなく、顔を洗う時間さえもなく、食糧調達、水汲みなどを弾が飛び交う地上を行き来していた。被弾し、顔がぐちゃぐちゃになった兵から『顔を見たいので鏡を』といわれたのもいた。
衛生面も何もかも病院と呼ぶには程遠い状況の陸軍病院。

資料館は涙なくしては見られなかった。日本は本土決戦に備えた時間稼ぎのため、米軍は沖縄を決戦のための基地確保のため。
一日二日で制圧は早い展開を見せる。島の西から上陸した米軍は数日で東の海岸まで占領し、南部に逃げた日本は段々と逃げ場を失っていった。最後は崖から飛び下りたり、手榴弾で自決するものがいた。遺品やその一部始終を捕らえた映像が、この地で実際に行われていた事なんだとどこか浮ついた気持ちが思い切り鷲掴みされたような感覚を覚え、目を逸らす事ができなかった。

資料館ではひめゆり学徒隊の生き残りの方から当時の話を聞くことができた。思った通りだが、当時の事はできれば話したくないらしい。でも話さないと当時の記憶を伝えるものがいなくなってしまうから堪えながら話しているそうだ。当時がいかに惨たらしい現実だったのかは実際に行って見てくれるといいです。教師、生徒達の日常を垣間見る事の出来る場所もあります。

そして平和祈念公園。
広場には沖縄戦で亡くなった米兵も含め、13万人ほどの名前が彫られた慰霊碑が立ち並ぶ。行くと分かるが広い。そのくらい犠牲者がたくさん居たという事だ。
広場真ん中にはアジア一帯の地図を模した噴水がある。これは二度とこんな悲劇を起こしてはならないという意味が込められているそうだ。
ここから南を向くとすぐ太平洋が広がっている。柵の先には断崖絶壁が広がる。柵に登る(許容範囲)と目がくらむ位の高さの崖。今でこそ絶景のスポットだけど63年前は絶望でしかなかった場所だったのだ。

平和祈念資料館には満州事変やミッドウェー海戦、真珠湾攻撃、悍ましい数で沖縄を囲む米軍の船、戦線の映像、犠牲者たちの写真、遺品。たくさんあります。ここも細かくは実際見る事をオススメします。現実に起こった事なんだと目に焼き付けてきました。

さて、ここからは娯楽の時間。みーばるビーチにて海岸にでる。アップしたブログ画像のようにエメラルドに輝く海はホントにきれいでした。水着ないのを悔やみました(´д`)ボートと大海原に出て、水族館で見るような色鮮やかな魚たちは見事に自然の美しさをまざまざと見せつけるようでした。あっという間に時間が過ぎました。皆、来る時は水着を是非!

あ、来る途中にとても著名な方の別荘があります~ヽ('ー`)ノ~

そして玉泉洞。踊り子の方二人と写真撮影し、まずは鍾乳洞へ。800メートル以上の洞窟はホント長かった。出口いつ?だった(笑)
出口をでると撮影した写真の販売が。いや買うに決まってるでしょ~うまいなー(笑)
この後、熱帯で育つ果物たちがたくさんある庭園に。パイナップル、ヤシの実、マンゴー、バニラビーンズなどなど他にもたくさん。

このあとは沖縄ならではの踊りが見れる施設があり、堪能してきた。最後に客も参加できる踊りコーナーがあったので迷わず参戦(笑)いい思い出なり。
ニシキヘビに絡まれ撮影コーナーもあったけどちと金策ピンチでニシキヘビを触るだけにとどまった。腹がめちゃめちゃやわこかった。

で、国際通りまで送ってもらい公設市場でごはん。何もかもが美味しかった。

時間がまだまだあるが今日は大満足、大満腹のため歩いてホテルへ帰還。で今です。さて浴場いって夜中の那覇に繰り出しますかね~