人の感覚 | Death was the ancient Beast

Death was the ancient Beast

ギター弾き。央のゆびきたす

今日ビックカメラでマイクロSDなるカードを読み込むカードリーダー?買いました。以前の携帯はその前の大きさのチップだったのが、今の携帯に代えてからSDとかゆうものになってまして手持ちのカードリーダーでは読み込めなかったのです。前の携帯が壊れてしまい致し方なしに今のやつなのですが、、
それにしても何でも小さくなってゆくね。携帯も最初は背中に受信機担いでゴツいものだったらしいが、今は周知の通り、薄い軽い小さい。
機材もそう。某メーカーからはアンプシュミレーターが出て一世を風靡したと思うのですが、それよりさらにコンパクトサイズで最近出たし…ホント手のひらサイズ。
あとクオリティは知らないが某メーカーからはテレコサイズのMTRが出た。まさに場所を選ばずレコーディング。
場所を選ばないといえば最近壁に掛けるテレビが出たと思うのですが、、薄さにびっくりです。
いかに場所を取らずスマートにストレスレスにを第一に産業は発展してる模様。


世に生きる人達はストレスを無くすために日々こういった一見利便性の高い物を求めるのに何故ちっともストレス社会は改善されないのだろう?それらを生み出す過程に伴うストレスについてではなく、それらを使用している自分達がです。

原因は様々なモノが重なり重なりデカい塊ができてしまうと思うんだけど、便利さゆえにそれに頼る生活に慣れて行く、それを持った上での予定立て、時間も切り詰めてく。それに生じる歪み、ストレス。もう少し掘り下げ・・・

現代はバーチャルでそれこそそこにいるような気分を味わえるアトラクション施設やパノラマ映像もある。これは所謂利便性を求めた中で生まれた産物だろう。悪いとは思わない。が、リアルに体験した場合それでは決して味わえないもっと崇高な感覚のはず。
この本当の感覚というものを感じる機会が減って行っているんではないか。
おおよその情報はパソコンでわかってしまうし、相応のモノを揃えれば前述のよう擬似体験も可能だろう。『本当のモノ』に辿り着くまでの過程がスキップされている。そこには苦労もあるし出会いもある。

便利になればなるほどヒトは行動を避け、動かなくなって行く。何かをしなくなる。何かをするのが面倒になっていく。人と関わらなくなっていく。それが当たり前になっていく。何も感じなくなっていく。ちょっとした事でイラつく。

本当の感覚っていうのは、喜怒哀楽をリアルに体験する事だ。誰だって併せ持っている素晴らしい能力だ。
楽しければワクワクするし笑えるし、つまらなければその逆。

自分はもっともっと色んなヒト、場所と関わりあって行きたい。
きっと心底楽しいことが待ってる。

明日は海の前に山の方へ旅立ってみる事にします。