気分は80年代な。

Prince / I would die 4 U



映画雑誌読んでたら、脚本家の會川昇(機動戦艦ナデシコとハガレンとか、仮面ライダー)がアニメ映画に批判的なコメントを寄せていたが、

パチンコがアニメだらけになった理由(わけ)/安藤 健二


この本を読んだら、答えの一端は分かるかも。


おいらの1位は、江頭2:50と同じ「442 日系部隊・アメリカ史上最強の陸軍」だ。
いよいよ今週公開の『KICK-ASS』。

今年のもえはここからだ(?)

非実在見て元気出そう。






主演のクロエ・グレース・モレッツ
(こんな動画貼ってるとリアルに◯リに思われるか?)




(クラプトンはこれまで避けてきたというか、どうも退屈なかんじがしていたが、この本を読んで少し
変わったかも)

デレク&ザ・ドミノス インサイド・ストーリー―名盤の裏側/ジャン・レイド



「いとしのレイラ」という曲が、ジョージ・ハリソンの当時の妻パティ・ボイドへの横恋慕から書かれた曲だとは聞いていたが、それ以上のドラマがこのデレク&ザ・ドミノスの『いとしのレイラ』というアルバムにはあったとは。


エリック・クラプトンは、第二次大戦終了直前に、イギリス人の母とカナダ空軍兵の間に生まれた。
母はこの時16歳。父はカナダの妻のもとへ戻り、生涯エリックと会うことはなかった。
母親もエリックが2歳の時、別の男を追って、家を出て行った。
エリックは祖父母を両親だと思い込み育った。
「それでもクラプトンは”素晴らしい少年時代だった”と言っている。」

13歳のある日、テレビでジェリー・リー・ルイスの「火の玉ロック」を見てぶっ飛び、ギターを買ってもらった。
「だがクラプトンは、新しい趣味によって慰めを得たにもかかわらず、家族の意外な事実と、それによって変わりゆく自分自身の姿に苦しめられていた。孤独を好み、いつもピリピリしていた少年クラプトン。・・・いじめっ子に石を投げられたこともあったらしい。」

「エリックのブルースを聴くと、思わず泣けてくるわ。あの子は、いつでも寂しそうだった。それが今でも音楽に表れているようでね。」(ロックスターになったころの祖母のインタビュー)

「自室に何時間もこもって、エリック・クラプトンはギターの秘密の数々を必死で解き明かそうとしていた。」そして、ビッグ・ビル・ブルーンジー、ブラインド・ウィリー・ジョンソン等のブルース・プレイヤーに影響を受けたが、最も影響を受けたのがロバート・ジョンソンだった。

「ジョンソンは見事な才能のあるギタリストで、銃やナイフに頼って生きながら、女性をモノにしたり、所有物として見る男たちについて歌うことで知られていた。」

「ブルースは彼を狂わすラプソディであり、ロバート・ジョンソンは彼にとって英雄だった。」
「クラプトンがレイラの伝説を知り、親友の妻への欲求にとりつかれるようになる遥か以前から、ブルージーンズの股間の膨らみと、自分の音楽の中心にブルースを据えていたわけだ。」

「ジョンソンの音楽に対する敬愛が実を結んでいるのは、クラプトンがジョンソンを歌っている場合ではない。クラプトンが、いったんジョンソンの音楽を自分自身の一部にしてしまった上で、自分に最も近づいている場合に実を結んでいる。『いとしのレイラ』『エニイデイ』を歌っているあの熱情だ。・・・この世の美しさと、それを失う恐怖のすべてがエリック・クラプトンのロックにはある。」
(グリール・マーカス「ミステリートレイン」より)


クラプトンが、ヤードバーズ、ブルース・ブレイカーズ、クリームとロックスターの道を歩み始める。
クリーム時代にアメリカで・ニューヨークで、フランク・ザッパやアル・クーパーらと興じ、ザ・バンドのロビー・ロバートソンから衝撃的な影響を受ける。
「クラプトンは、ザ・バンドのメロディアスなアレンジや彼らの生き生きとした歌詞、そしてロバートソンの”延々と続く派手なギターソロなんかやめちまえ”という主張、短く爆発的なリフを全面に出した曲構成といったものに影響を受け、全く逆の方向性を目指したのである。」

そして、クリーム解散後にスティーブ・ウィンウッドとザ・バンドのようなバンドを組む必要性について意気投合し、ブラインド・フェイスを結成。グループは低調で、ニューヨークでのライブは暴動が起こるほどの失敗だったが、そのときの前座でクラプトンの興味を惹いたのが、デラニー&ボニー・アンド・フレンズだった。ここから彼らと親交を深めたことで、デレク&ザ・ドミノス結成へとつながってゆく。
(無名時代の彼らをアトランティックのジェリー・ウェクスラーに紹介したのが、グラム・パーソンズで、それにより、この前座をつとめるきっかけとなったのは興味深い。)
デラニー&ボニー・アンド・フレンズには、デレク&ザ・ドミノスでキーボードとボーカルを担当することになるボビー・ウィトロックがいた。

ブラインド・フェイス、デラニー&ボニーの両方が解散した後、ウィトロックは、かつて在籍していたスタックス・レコードのスティーブ・クロッパー(ブッカーT&ザ・MGs)のすすめで、イギリスのクラプトン邸を訪れる。そこで2人で曲作りを行っているうちにクラプトンが本気でバンドを組むことを考え始める。
メンバーはすぐ決まった。デラニー&ボニーのツアーでプレイしていた、ベースのカール・レイドルと、同じくデラニー&ボニーでドラムを叩き、セッション・プレイヤー集団レッキング・クルーのメンバーでもあったジム・ゴードン。
(この3人とも当時の西海岸のボス的存在のレオン・ラッセルが面倒を見ていたのだった。)
もうひとりのギタリストは、元トラフィックのデイヴ・メイスンに決まった。
バンドはライブを試した後、レコーディングのため、アメリカに渡る。


この時期、エリック・クラプトンとジョージ・ハリスンの妻パティ・ボイドの関係。
「彼はこの世で最も魅力的な女性から愛されていたにも関わらず、自らの手で彼女を遠ざけたのだ。そして彼女のそばには、常に狂おしいばかりに彼女を愛しているセクシーなギタリストがいた。クラプトンは・・・彼女を自分のものにして一緒に逃げ出したいと思っていた。(中略)
パティは自分の感情に苦しみつつ、クラプトンを手玉に取り、彼を辛い目にあわせていた一方で、ジョージとの結婚の誓いを無にすることなく、夫に誠実な良妻であろうと努めていた。」のだった。

その頃、12世紀ペルシャの詩人ニザーミーの詩集を目にしたクラプトンは、『マジュヌンとレイラ』の伝説を知る。
貴族の青年カイスは、美しい女性レイラに一目惚れし、互いに想うようになるが、恋心からマジュヌン(狂人)となったカイスを、レイラの父は認めず、別の男と結婚させられたレイラの死後、墓前でカイスは自ら死んだという悲恋の詩だった。


結局デイヴ・メイスンはギタリストを降り、クラプトン一人でギターを担当することにした。
アルバムのレコーディングを依頼されたのは、マンハッタン計画にも参加していた、元物理学者という経歴を持つアトランティックのトム・ダウド。
依頼の電話を受けた時、トム・ダウドは、オールマン・ブラザーズ・バンドのアルバムの制作中だった。
「オールマンは『それって、あのクリームの?』というやいなや、ダウドにクラプトンのフレーズをいくつか弾いてみせてこう言った。『君とレコーディングするのかい?すごいな。俺も是非会いたいけど、見学出来るかな。』
デュエイン・オールマンは2年ほど前、わずか20才の頃に、ウィルソン・ピケットの「ヘイ・ジュード」のフェイム・スタジオでのレコーディングに参加し、知られる存在になっていた。

デレク&ザ・ドミノスのセッション中にトム・ダウドがデュエイン・オールマンが来る旨をクラプトンに伝えると、「それって「ヘイ・ジュード」のバックで演奏したあの人?」とクラプトンは言った。

「ウィルソン・ピケットのバックで50秒間のギタープレイをぶちかましていたデュエイン・オールマンの存在は・・・遥か前から、インプットされていた。(中略)
ダウドからオールマン・ブラザーズがマイアミでコンサートをやると聞かされたクラプトンは即答した。『行くしかないな。』」

オールマンのライブでの衝撃的な出会いを経て、デュエインは5人目のメンバー、もうひとりのリーダーとして、ドミノスに参加する。(参加したのは数曲。ライブも数回だが)
「だが極めつけは言うまでもなく、オールマンが閃いた、あの7音から成るイントロだ。・・・クラプトンの生涯に残るトレードマークになっていくが、実際にスタジオでこれを編み出しプレイしたのはオールマンだった。」

1970年9月ロンドンで、ジミ・ヘンドリクスが睡眠薬の過剰摂取で死亡。
1970年11月、アルバム『いとしのレイラ』が発売になる。
1971年5月、セカンド・アルバムレコーディング中に解散。
1971年10月、デュエイン・オールマンがオートバイによる交通事故で死亡。

ボビー・ウィットロックは、その後、いったん音楽生活から引退するが、1999年に復帰。
カール・レイドルはアルコールとヘロインで腎臓をやられ、1980年に38歳で亡くなる。
ジム・ゴードンは、1983年、頭の中の”声”に命ぜられて、自分の母親を惨殺し、刑務所に入る。
(「いとしのレイラ」後半部のピアノパートは、ジム・ゴードンとリタ・クーリッジが書いたものだそう)

クラプトンとパティは遂に結ばれるが、浮気と隠し子から、別れることに。
そしてその子が高層ビルから転落死したときに書いた曲が「ティアーズ・イン・ヘブン」だ。


ウィットロックは言う。
「みんなガッチリまとまっていたよ。」と、振り返る笑顔は確信に満ちている。
「たとえ自分たちには最悪の夜でも、俺達は最高のロックバンドだったんだ。」
ミステリー・トレイン―ロック音楽にみるアメリカ像/グリール マーカス
$僕、ナポレオン



音楽評論家グリール・マーカスが「アメリカとロック」を論じた本。

前回が、アトランティック・レコードのアーメット・アーティガンならば、
こちらでは、サン・レコードのサム・フィリップスがキーパーソンになる。

「フィリップスが探し求めていたものは、うまくあてはまらないものであった。誰もが理解しているように思える姿のアメリカン・ライフにおいては意味をなさないもの、あるいは、そのアメリカン・ライフを反映していないものであり、そんなものは問題外とし、事態を混乱させ、すっかり変えてしまうものであった。」

「1951年に、サム・フィリップスは、テネシー州メンフィスで、若い黒人ブルース歌手のレコードをつくる事業を零細な資金でやっていた。その数年後に、彼はエルヴィス・プレスリー、カール・パーキンス、ロイ・オービソン、ジェリー・リー・ルイス、といったロックの創始者たちを世におくり出すことになった。」


ロック音楽のルーツを代表する二人としてあげられているミュージシャン

「(カントリー音楽)はほとんど悲劇的なほどに保守的だった。わずかに小休止をもたらすだけで、変化はまったく期待できなかったからだ。・・・人々を気持ち良くさせる娯楽であったのだけれども、最も奥深い所では、戦後の変化するアメリカによって危険にさらされた価値観にしがみつく方法であった。カントリー音楽は、ものごとを切り開いていく自信に欠けていた。(代表的歌手)ハンク・ウィリアムズは雄弁ではあったけれども、その雄弁をもってしても、自分が歌う生活から自分を自由にすることはできなかった。彼はそのことを証明して死んだ。別の公演へ向かう車の後部座席で薬を飲み過ぎて死んだのである。」

一人は風変わりなもの(「黒人のサウンドと黒人のフィーリングを持った白人」)を求めていたサム・フィリップスの目を惹いた、香具師のような白人、ハーモニカ・フランク。

もう一人は、”ギターと引き換えに魂を悪魔に売り渡した男”ロバート・ジョンソン。

「歌の中でしばしば牧師をあざ笑っていたそのブルース歌手が、本当に悪魔を信じていたのだった。悪魔を最もよく知っていたからこそ悪魔を恐れていたのだ。どうしてセックスが人間の原罪であるかということを牧師よりもはるかに理解しており、それ以外のことはほとんどうたわなかった。
ブルースのこの面はアフリカに由来しているのではなく、清教徒の大信仰復興に由来している。・・・南部の白人たちがそれを自分たちの奴隷に伝え、その黒人たちが結局はそれを作りかえて自分たちの宗教にしたのだった。」
「悪魔という観念でもって、ジョンソンは自分に影を投げかけている恐怖を理解する方法を見つけたとは言えないだろうか。・・・悪魔のイメージがジョンソンの心に訴えたのは、自分の魂は自分自身のものではないということに気づき、そして、自分の人生の不幸と世間の悪を見て、自分の魂が誰のものであるかについて推断したときであった。」
「ブルースは、教会を一歩でた瞬間から自分を待ち伏せている残忍な世の中で生きていく必要から生じた。ゴスペルとはちがって、ブルースは超越の音楽ではない。・・・ジョンソンのような人間にとっては、未来の幸福を請け合う教会の約束は効き目はなかった。」

「清教徒たちはユートピア的ヴィジョンを持ってこの地にやって来た。彼らのもくろみは神の仕事をやることであり、もし失敗すれば、それは自分たちの仕事が悪魔の仕事であったことを意味する・・・彼ら清教徒がアメリカを形作ろうと試み、そして失敗したことがこの地に悪魔を放ったのだった。」



そして、本編に登場する4組のアーティスト。
ザ・バンド、スライ・ストーン、ランディ・ニューマン、エルヴィス・プレスリー。

それぞれについて、アメリカの歴史、政治、文学、芸術などを引き合いに出して、分析していて、
なるほどと手を打つことが多い。
(正直、わからない部分も多いが。端折り気味だが、3を読む前に読んでおいて正解だった。)
(別に3部作なわけではないが、読んだ流れが神すぎたので)

アトランティック・レコード物語/ドロシー ウェイド
$僕、ナポレオン


2006年に亡くなったアーメット・アーティガンが創設したアトランティックレコードについて書かれた本。

1923年、トルコ共和国成立の年に生まれたアーメットは、11歳の時、トルコ外交官の父の新たな任地アメリカ・ワシントンにやってくる。そこは彼の大好きなジャズ発祥の国だった。
そして、トルコ大使館で働く黒人雑役夫クレオ・ペインにボクシング、ビール酒場、ソウル・フードについて教わり、ブラック・ミュージックに夢中になり、ハーレムを訪れることが夢だった。
願いは叶ったが、そこは外交官の息子(14歳!)。厳重な警備付きで連れ戻され、しばらく出入り禁止になる。
そして、黒人差別の法律が存在した当時、
「私たちには黒人の友人がたくさんいました。なのに、彼らと一緒にレストランで食事をすることも、映画を観に行くことも、劇場に入ることもできないのです。彼らと並んで外を歩くことすら許されませんでした。」
(アーメットの兄にして、共同経営者のネスヒ・アーティガン)

1944年、父の死後もアメリカにとどまることにしたアーメットは、レコード会社設立を決意する。
「レコード産業は急成長をとげようとしていた。(中略)それまでの空白を埋めるかのようにレコードの需要が急増し、音楽に関する知識など皆無に近い事業家たちが、こぞって新しいレコード会社を設立した。『そういう人々と会っているうちに、彼らが音楽のことを何も知らないことに気づいたんだ。』」

それから、ハーレムや各地でアーティスト(の卵)を探し、レコーディングの日々。

「アトランティックで作られるレコードの大部分は、典型的な『ブルース』ではなく、・・・『シティブルースとサザンブルース』の混ざり合ったものだった。彼ら(ビッグバンドに所属する洗練されたジャズミュージシャン)は伝統的なサザン・ブルースを「くだらないもの」と決めつけ、できればそんな音楽は演奏したくないと考えていた。しかし、その「くだらない」サウンドこそ、アーティガンが求めていたものだった。そうした音楽の方が商売になったからだ。・・・上品で洗練された彼らの演奏に、わずかでもいいからベーシックで粗削りなブルースの趣を加えてくれるよう頼んだ。」

徐々に台頭しだしたアトランティックだが、共同経営者の一人が陸軍に招集されてしまう。
そこで彼が招いたのは、「ビルボード」の記者であり、「『レイス・レコード』(人種音楽?)という侮蔑的な表現に代わって『リズム&ブルース』という言葉を生み出した」ジェリー・ウェクスラーだった。

この二人がアトランティックを発展させてゆくが・・・。

この本のすごい所。
1.関係者へのインタビューや内幕話。
アトランティックのプロデューサー&レコーディング・エンジニアであったトム・ダウド、最初の専属ライターだったドク・ポーマスを始め、ジェリー・リーバーとマイク・ストーラー、フィル・スペクター、チェスレコードのレナード・チェス、サイアー(Sire)・レコードでラモーンズやトーキング・ヘッズらと契約し、マドンナと契約したシーモア・スタイン、エレクトラ(Elektra)・レコードのボブ・クラスノウ、スタックス・レコード(メンフィス・サウンド)のブッカーT&ザ・MGs、フェイム・スタジオのリック・ホール(マッスル・ショールズ・サウンド)、ラジオDJのアラン・フリード、ワーナーのスティーブ・ロス、そしてデヴィッド・ゲフィン。


1975年、ジェリー・ウェクスラーはアトランティックを退社し、現代の音楽業界の発展に絶大な影響を及ぼした、アーティガンとの22年間にわたる協力関係に終止符を打った。
「アトランティックは、ブラック・ミュージックのおかげでビッグになったわけじゃない。確かにブラック・ミュージックのおかげで成長し、安定を得たかもしれないが、それでビッグになったわけじゃないんだ。アトランティックがビッグになれたのは、ロックのおかげだった。ロックン・ロールじゃなくてロックだよ。」(ウェクスラー)


2.業界の成り立ち。
章タイトルが「チンピラとペテン師」「酒・賄賂・女」「マイアミで傷害事件、メンフィスで殺人」
「おかしな名前の連中」(通名というやつ。その筋の)から分かるように、著作権・出版・セール盤etcと暗黒街の関係。

「ブラック・ミュージックの周辺にはスキャンダラスな空気がたちこめ、それを嫌った大手レコード会社は、アトランティックも含めてますます、比較的「安全な」白人ポップスやロック・ミュージックに重点を置くようになった。」


3.本来主役のアーティスト達。
レイ・チャールズ、ソニー&シェール、ベン・E・キング、アレサ・フランクリン、ウィルソン・ピケット、パーシー・スレッジ、オーティス・レディング、リトル・リチャード、マディ・ウォーターズ、ソロモン・バーク、アル・グリーン、ルース・ブラウン、アイザック・ヘイズ、ジャクスン・ファイブ、エリック・クラプトン、レッド・ツェッペリン、バッファロー・スプリングフィールド、ローリング・ストーンズ、ビージーズ、イエス、フォリナー、ジェネシス、シュガー・ヒル、などなど話の中で出て来るが、あくまで商品というか濃い話の引き立て役とでもいうか。

「40年に及ぶアトランティックの歴史の中で、様々なスタイルの音楽が現れたては消え、多くのレコード会社が栄えては滅び、パートナーが次々と台頭しては姿を消した。・・・アトランティックの創立40周年を祝って、あらゆる勢力が集結した。ジャズ、R&B、ソウル、ロック。音楽のヴァラエティーは目もくらむばかりだった。しかし、それらすべてを結びつけていたのはアーティガンだった。(中略)
そのコンサートが実現したこと自体、ちょっとした奇跡だった。しかしそれもまた、アーティガンの見事な外交的手腕のおかげだった。」