(クラプトンはこれまで避けてきたというか、どうも退屈なかんじがしていたが、この本を読んで少し
変わったかも)
デレク&ザ・ドミノス インサイド・ストーリー―名盤の裏側/ジャン・レイド

「いとしのレイラ」という曲が、ジョージ・ハリソンの当時の妻パティ・ボイドへの横恋慕から書かれた曲だとは聞いていたが、それ以上のドラマがこのデレク&ザ・ドミノスの『いとしのレイラ』というアルバムにはあったとは。
エリック・クラプトンは、第二次大戦終了直前に、イギリス人の母とカナダ空軍兵の間に生まれた。
母はこの時16歳。父はカナダの妻のもとへ戻り、生涯エリックと会うことはなかった。
母親もエリックが2歳の時、別の男を追って、家を出て行った。
エリックは祖父母を両親だと思い込み育った。
「それでもクラプトンは”素晴らしい少年時代だった”と言っている。」
13歳のある日、テレビでジェリー・リー・ルイスの「火の玉ロック」を見てぶっ飛び、ギターを買ってもらった。
「だがクラプトンは、新しい趣味によって慰めを得たにもかかわらず、家族の意外な事実と、それによって変わりゆく自分自身の姿に苦しめられていた。孤独を好み、いつもピリピリしていた少年クラプトン。・・・いじめっ子に石を投げられたこともあったらしい。」
「エリックのブルースを聴くと、思わず泣けてくるわ。あの子は、いつでも寂しそうだった。それが今でも音楽に表れているようでね。」(ロックスターになったころの祖母のインタビュー)
「自室に何時間もこもって、エリック・クラプトンはギターの秘密の数々を必死で解き明かそうとしていた。」そして、ビッグ・ビル・ブルーンジー、ブラインド・ウィリー・ジョンソン等のブルース・プレイヤーに影響を受けたが、最も影響を受けたのがロバート・ジョンソンだった。
「ジョンソンは見事な才能のあるギタリストで、銃やナイフに頼って生きながら、女性をモノにしたり、所有物として見る男たちについて歌うことで知られていた。」
「ブルースは彼を狂わすラプソディであり、ロバート・ジョンソンは彼にとって英雄だった。」
「クラプトンがレイラの伝説を知り、親友の妻への欲求にとりつかれるようになる遥か以前から、ブルージーンズの股間の膨らみと、自分の音楽の中心にブルースを据えていたわけだ。」
「ジョンソンの音楽に対する敬愛が実を結んでいるのは、クラプトンがジョンソンを歌っている場合ではない。クラプトンが、いったんジョンソンの音楽を自分自身の一部にしてしまった上で、自分に最も近づいている場合に実を結んでいる。『いとしのレイラ』『エニイデイ』を歌っているあの熱情だ。・・・この世の美しさと、それを失う恐怖のすべてがエリック・クラプトンのロックにはある。」
(グリール・マーカス「ミステリートレイン」より)
クラプトンが、ヤードバーズ、ブルース・ブレイカーズ、クリームとロックスターの道を歩み始める。
クリーム時代にアメリカで・ニューヨークで、フランク・ザッパやアル・クーパーらと興じ、ザ・バンドのロビー・ロバートソンから衝撃的な影響を受ける。
「クラプトンは、ザ・バンドのメロディアスなアレンジや彼らの生き生きとした歌詞、そしてロバートソンの”延々と続く派手なギターソロなんかやめちまえ”という主張、短く爆発的なリフを全面に出した曲構成といったものに影響を受け、全く逆の方向性を目指したのである。」
そして、クリーム解散後にスティーブ・ウィンウッドとザ・バンドのようなバンドを組む必要性について意気投合し、ブラインド・フェイスを結成。グループは低調で、ニューヨークでのライブは暴動が起こるほどの失敗だったが、そのときの前座でクラプトンの興味を惹いたのが、デラニー&ボニー・アンド・フレンズだった。ここから彼らと親交を深めたことで、デレク&ザ・ドミノス結成へとつながってゆく。
(無名時代の彼らをアトランティックのジェリー・ウェクスラーに紹介したのが、グラム・パーソンズで、それにより、この前座をつとめるきっかけとなったのは興味深い。)
デラニー&ボニー・アンド・フレンズには、デレク&ザ・ドミノスでキーボードとボーカルを担当することになるボビー・ウィトロックがいた。
ブラインド・フェイス、デラニー&ボニーの両方が解散した後、ウィトロックは、かつて在籍していたスタックス・レコードのスティーブ・クロッパー(ブッカーT&ザ・MGs)のすすめで、イギリスのクラプトン邸を訪れる。そこで2人で曲作りを行っているうちにクラプトンが本気でバンドを組むことを考え始める。
メンバーはすぐ決まった。デラニー&ボニーのツアーでプレイしていた、ベースのカール・レイドルと、同じくデラニー&ボニーでドラムを叩き、セッション・プレイヤー集団レッキング・クルーのメンバーでもあったジム・ゴードン。
(この3人とも当時の西海岸のボス的存在のレオン・ラッセルが面倒を見ていたのだった。)
もうひとりのギタリストは、元トラフィックのデイヴ・メイスンに決まった。
バンドはライブを試した後、レコーディングのため、アメリカに渡る。
この時期、エリック・クラプトンとジョージ・ハリスンの妻パティ・ボイドの関係。
「彼はこの世で最も魅力的な女性から愛されていたにも関わらず、自らの手で彼女を遠ざけたのだ。そして彼女のそばには、常に狂おしいばかりに彼女を愛しているセクシーなギタリストがいた。クラプトンは・・・彼女を自分のものにして一緒に逃げ出したいと思っていた。(中略)
パティは自分の感情に苦しみつつ、クラプトンを手玉に取り、彼を辛い目にあわせていた一方で、ジョージとの結婚の誓いを無にすることなく、夫に誠実な良妻であろうと努めていた。」のだった。
その頃、12世紀ペルシャの詩人ニザーミーの詩集を目にしたクラプトンは、『マジュヌンとレイラ』の伝説を知る。
貴族の青年カイスは、美しい女性レイラに一目惚れし、互いに想うようになるが、恋心からマジュヌン(狂人)となったカイスを、レイラの父は認めず、別の男と結婚させられたレイラの死後、墓前でカイスは自ら死んだという悲恋の詩だった。
結局デイヴ・メイスンはギタリストを降り、クラプトン一人でギターを担当することにした。
アルバムのレコーディングを依頼されたのは、マンハッタン計画にも参加していた、元物理学者という経歴を持つアトランティックのトム・ダウド。
依頼の電話を受けた時、トム・ダウドは、オールマン・ブラザーズ・バンドのアルバムの制作中だった。
「オールマンは『それって、あのクリームの?』というやいなや、ダウドにクラプトンのフレーズをいくつか弾いてみせてこう言った。『君とレコーディングするのかい?すごいな。俺も是非会いたいけど、見学出来るかな。』
デュエイン・オールマンは2年ほど前、わずか20才の頃に、ウィルソン・ピケットの「ヘイ・ジュード」のフェイム・スタジオでのレコーディングに参加し、知られる存在になっていた。
デレク&ザ・ドミノスのセッション中にトム・ダウドがデュエイン・オールマンが来る旨をクラプトンに伝えると、「それって「ヘイ・ジュード」のバックで演奏したあの人?」とクラプトンは言った。
「ウィルソン・ピケットのバックで50秒間のギタープレイをぶちかましていたデュエイン・オールマンの存在は・・・遥か前から、インプットされていた。(中略)
ダウドからオールマン・ブラザーズがマイアミでコンサートをやると聞かされたクラプトンは即答した。『行くしかないな。』」
オールマンのライブでの衝撃的な出会いを経て、デュエインは5人目のメンバー、もうひとりのリーダーとして、ドミノスに参加する。(参加したのは数曲。ライブも数回だが)
「だが極めつけは言うまでもなく、オールマンが閃いた、あの7音から成るイントロだ。・・・クラプトンの生涯に残るトレードマークになっていくが、実際にスタジオでこれを編み出しプレイしたのはオールマンだった。」
1970年9月ロンドンで、ジミ・ヘンドリクスが睡眠薬の過剰摂取で死亡。
1970年11月、アルバム『いとしのレイラ』が発売になる。
1971年5月、セカンド・アルバムレコーディング中に解散。
1971年10月、デュエイン・オールマンがオートバイによる交通事故で死亡。
ボビー・ウィットロックは、その後、いったん音楽生活から引退するが、1999年に復帰。
カール・レイドルはアルコールとヘロインで腎臓をやられ、1980年に38歳で亡くなる。
ジム・ゴードンは、1983年、頭の中の”声”に命ぜられて、自分の母親を惨殺し、刑務所に入る。
(「いとしのレイラ」後半部のピアノパートは、ジム・ゴードンとリタ・クーリッジが書いたものだそう)
クラプトンとパティは遂に結ばれるが、浮気と隠し子から、別れることに。
そしてその子が高層ビルから転落死したときに書いた曲が「ティアーズ・イン・ヘブン」だ。
ウィットロックは言う。
「みんなガッチリまとまっていたよ。」と、振り返る笑顔は確信に満ちている。
「たとえ自分たちには最悪の夜でも、俺達は最高のロックバンドだったんだ。」