TOKYO TRIAL 1946~1948 vol.3 | 秋 浩輝のONE MAN BAND

秋 浩輝のONE MAN BAND

はじめに言葉はない

判決に合意しなかった4人の判事たち

①オーストラリア:ウィリアム・ウェッブ裁判長

②フランス:アンリー・ベルナール

③オランダ:ベルト・レーリンク

④インド:ラダ・ビノード・パール

 

 

オランダのベルト・レーリンク判事は、はじめは他の多くの判事たちと同様、戦勝国側の論理である有罪判決に同意していたが、途中で、インドのラダ・ビノード・パール判事の極めて論理的でバイアスを排除した考え方に共鳴するようになっていった。そもそもレーリンク判事は東京裁判に参加するまでは国際法には素人同然の知識しかなかったが、生来、生真面目な性格なので誰よりも熱心に勉強し、誰よりも意欲的に活動したそうである。温厚で折り目正しい紳士、音楽を愛しバイオリンまで弾きこなす知性と教養に溢れた人間…それらが上品な顔つきや物腰の柔らかさにも表れているようだ。

 

オランダ:ベルト・レーリンク判事

 

 

フランスのアンリー・ベルナール判事は、実証的で解りやすいインドのパール判事と比べると、控えめな印象があるが、実は最も普遍的かつ不変的な真理を根幹に据えた思考をする判事である。人が人を裁ける根拠とはいったいなにか…それは法以前に、社会のルールとして暗黙の了解として存在する「人間の良心」に照らして裁くことだという、いわゆる「自然法」を主張した。自然法とは、ギリシア時代から広範囲に亘って様々な分野で論じられているが、要は自然を規範として正しきものを見出すという考え方だ。

 

その特徴としては、

普遍性:自然法は時代と場所に関係なく妥当する

不変性:自然法は人為によって変更されえない

合理性:自然法は理性的存在者が自己の理性を用いることによって認識され得る

(Wikipediaより)

 

ベルナール判事は、日本人が信じた神(=天皇)を重要視した。パール判事と同様、被告人は全員無罪を主張したが、その根拠、考え方はずいぶん違っている。そして最終的には神(=天皇)の戦争責任を問うのである。ベルナール判事は法学者というよりも神学者であり、哲学者である。

 

フランス:アンリー・ベルナール判事

 

 

 

弁護士たちの発言、考え方

 

アメリカ:ベン・ブルース・ブレイクニー弁護士

国際法に詳しいブレイクニー弁護士は、「A級犯罪は事後法であり、裁判で裁くことはできない」と言ったパール判事とまったく同じ考え方である。

ブレイクニー弁護士は言った。

「(真珠湾攻撃が殺人罪になるのなら)我々は広島に原爆を投下した者の名前を挙げることができます」

案の定、ブレイクニー弁護士の発言は弁護記録から抹殺された。

 

ベン・ブルース・ブレイクニー弁護士

 

 

日本人弁護団副団長:清瀬一郎弁護士

清瀬弁護士はウェッブ裁判長に質問をした。  
「平和に対する罪、戦争自体を計画すること、準備すること、始めること…そのこと自体を罪に問うなどということは、これまでの文明国共通の観念にはありえない。この裁判は、一体なんの法律に基づいて裁かれるのか?」

ウェッブ裁判長は質問に答えずスルーした。核心を突いたどストライクな直球に答えるスベがなかったのだろう。一事が万事、こんな調子だった。

 

清瀬一郎弁護士

 

 

裁判期間の2年半に多くの弁護士たちや被告たちが発言した内容で、戦勝国側に都合が悪いことはすべて無視されるか、または発言途中で遮られ、自由な発言の機会を奪われていたようである。映画「東京裁判(実録版)」を見ると、それがよく解る。特にウェッブ裁判長と中華民国の梅判事の傲慢な発言と高圧的な態度は目に余る。

 

梅判事「そんなことは聞くつもりはない。こちらの質問にYESかNOでのみ答えなさい!」

 

見ているだけで胸糞悪くなってくる。こんな一方的な裁判は裁判と言えるシロモノではない。民主主義とは程遠い。検察側は、太平洋戦争は日本の「劣悪な」指導者たちが謀議して起こした侵略戦争であり、連合国側は被害者であるというストーリーにしたいわけである。そのことに異を唱えたまともな判事や弁護士たちはこれまでに紹介したように数人いたが、裁判では完全に無視されてしまった。彼らは裁判を公平なものと見せかけるためのアメリカの思惑に利用されただけなのだ。現代においても茶番劇のような裁判はたくさんあるが、人が人の人生…死刑や禁固年数を決定する以上、間違いや歪みがあってはならない。東京裁判のような裁判は二度とあってはならないのである。

 

(了)