あくまで架空インタビューです。事実と思われるエピソードや、キースとグレッグが過去にインタビューで語ったことを膨らませ、「創作」しています。(一部ウソも含まれていますw)
GL=グレッグ・レイク
HA=秋 浩輝
HA「結局、〈渡り鳥)ドラマーのコージー・パウエルが脱退、EL&パウエルはたった1年であえなく解散してしまいました。そのあと、あなたが脱退、代わりにロバート・ベリーが加入、カールが戻ってきました。いったい何があったんですか?」
GL「その頃、エイジアは3作目の『アストラ』の売れ行きが悪かったんだ。で、カールを誘うとすぐに乗ってきやがった(笑) めでたくELP再結成になるはずだったんだが、わずか3週間で分裂してしまった。キースと俺は10年前の嫌なことを蒸し返して口論ばかりしていたんだ。結局、俺が抜けて、キースとカールは俺の代役を探し、アメリカ人の若いボーカリスト&ベーシストのロバート・ベリーを見つけてきた。3ピース・バンドにこだわっていたことを表したかったんだろう……『3(Three)』というバンド・ネームだった」
HA「スリーも短命でしたね。アルバム1枚とライブを少しやっただけで終わりました」
GL「ロバート・ベリーは悪くはないが、キースとは音楽性がまったく違っていた。アルバムを聴けばイギリス人とアメリカ人の感性の違いがモロに出ていたのが解っただろう? 所詮、イギリス人とアメリカ人は合わないんだ」
HA「はい、確かに。でも、あなたのソロ・アルバムにもアメリカ人(TOTOのメンバー)が参加してましたよ?」
GL「いや、俺の音楽はキースと違ってグローバルなものなんだ。国は関係ないっ!」
HA「あぁ、そうでしたか、それは失礼しました。それにしても1980年代はあなた方にとっては不遇の時代でしたね」
GL「70年代はさまざまな形態のロック・ミュージックが出てきた時代で、我々、プログレッシブ・ロックと呼ばれた実験的要素の強い音楽も受け入れられたんだ。だが、同じことを続けていたらオーディエンスに飽きられるのではないかという不安感が常に我々の中にあったのも確かだ。受け狙いで似合わないことをやってみたり、思いっきり派手なステージ衣装でコンサートに出たりもした。今考えると、明らかにやり過ぎだったよね。ロック・ミュージシャンは、そのほとんどが変態か、チンドン屋かと言われても仕方がないような恰好をしていた(笑)。我々プログレッシブ・ロッカーは、知的で、重厚感があって、いつでも哲学者のような遠い目をしてないといけなかったのに(笑)、他のジャンルのロッカーと何ら変わりがないことがオーディエンスにバレてしまったんだ。要は自業自得ってことさ。その責任の一端は俺にあったと思う。結局、マスコミを遠ざけてほとんどインタビューにも応じず、自分たちの信じたコンセプト主義をぶれずに突き通したピンク・フロイドの一人勝ちだったんだ」
HA「それはとても鋭い洞察力です。ロック・バンドはコアになる人が、如何に先見性を持っているか、コンセプトを押し通すことができるかが、バンド存続のポイントなんでしょうね。ピンク・フロイドにはロジャー・ウォーターズ、レッド・ツェッペリンにはジミー・ペイジというコンセプト・メーカーがいましたが、ELPには核になる人がいませんでした。昔、噂ではあなたが、キースとカールを操っていると言われてましたが、どうやら少し違ったようですね。よく売れていた頃は、あなたの名前がプロデューサーとしてクレジットされていましたが、キースによると全員でプロデュースしていたそうですね。あなたが『プロデューサーという名誉』を欲しがっていたので、バンドの平和のためにそうしただけだと」
GL「いや、それは違う。70年代ELPのアルバム制作における最終的決定権は俺にあった。俺がプロデュースしていたからこそ、ELPは世界的なバンドになれたんだ。全ELPのアルバムの中で、俺がプロデューサーとしてクレジットされたレコードは、すべてプラチナ・ディスクになっているが、他の人間がプロデューサーとしてクレジットされているレコードで、プラチナ・ディスクにはなったものは一枚もない。これほど明快な結果は他にないだろう」
HA「……そうですかね? 勢いのあった70年代は、誰がプロデュースしていようとプラチナ・ディスクは獲得できたんとちゃいまっか? あなたはエゴと名誉欲が強く、プロデューサーという名前に固執していただけの話で。逆にあまり売れなかった90年代以降は、公平を期すために第三者をプロデューサーに立てただけのことで、たとえあなたがプロデュースしていたとしても、プラチナ・ディスクは獲得できなかったんじゃございませんか?」
GL「……ち、ちがうもん……」
(vol.16に続く)
