「私、今夜は帰りたくない」
独身男にとっては嬉しい言葉だが、既婚男にとっては危険な言葉だ。
――さて、どうしよう。朝まで飲んでいたことにして、ラブホに泊まるか、それとも、何とか断って家に帰るか、愛人関係は続けたいが、女房にバレるとやばいし、やれ、困った……。不倫初心者の俺は悩んだ。
悩んだ挙句、夜8時過ぎに女房に電話した。
「E部長と一緒なんだが、得意先のR物産のOさんの接待で飲みに行くから遅くなる。先に寝ていてくれ」
「わかったわ。気をつけてね」
朝帰りになれば、『Oさんが悪酔いしたのを介抱していた』とでも言えばいいだろう。
女房はとても優しく、疑うことを知らない女だった。家事も完璧だ。だが、いくらできた女でも、3年も一緒に暮らせば飽きがくる。俺は刺激が欲しくなったのだ。
部下H子は俺より一回り年下で、去年、新卒で入社してきたばかりの若い女。男に抱きたいと思わせるような色っぽい顔とスタイルをしていた。部内での飲み会をきっかけに、俺はH子と親しくなった。趣味が同じロックミュージックだったので、あるバンドのコンサートに誘うと喜んでついてきた。コンサートが終わって、食事をしたあと、ラブホに誘うと、H子は嫌がらずについてきた。ベッドの中でH子は、入社したころから課長の俺に憧れていたと言ってくれた。
「私、今夜は帰りたくない」
甘くてとろけそうな言葉だが、慎重のうえにも慎重にコトを進めなければならない。言い訳は完璧だし、電話での女房の応対も悪くなかった。念のため、スマホの電源は切っておいた。翌日、二人とも仕事だったので、午前5時にはラブホを出て、家に帰ったのは朝方6時過ぎだった。
玄関のドアを開けると、目の前に女房がいるので俺はドキッとした。ひょっとして、バレたのだろうか。いつもは優しい顔をした女房だが、今日は険しい顔で俺を睨んでいる。
「こんな時間まで、どこに行ってたの?」
「だからE部長と一緒に、R物産のOさんの…」
俺の言葉を遮るように女房は冷たい口調で言い放った。
「E部長から電話があったわよ。R物産のOさんが事故で亡くなったそうよ」
「えっ!」
「スマホに連絡しても繋がらないから、うちに電話したんだって」
スマホの電源を切ったことが裏目に出てしまった。血の気がすぅ~と引いていく音が聞こえたような気がした。さらに女房は追い打ちをかけるように言った。
「嘘よ」
能面のような顔をした女房は、数枚の写真をばらばらと床に落とした。写真を見た俺は、へなへなと、その場に座り込んでしまった。それは俺とH子の路上キス写真や、今まさに、H子とラブホに入ろうとしている瞬間を捉えた写真だった。
――こんな写真、誰が、いつの間に……!
すべてのものが、がらがらと音を立てながら崩壊していった。
1ヶ月後、私はラブホのベッドの上にいた。
「夫はバカ…ってか、解りやすいのよね。挙動が怪しいので、間違いなく浮気だろうと興信所に調査を依頼してたことも知らないで、調子に乗っていたからさぁ。真面目で面白みに欠けるから、3年も一緒にいたら飽きちゃった。それにしても離婚の慰謝料800万円も取れて良かったわ。言ってみるものね」
「すべて計画通りだな。悪い女だ」
「所詮、実家が裕福なお坊ちゃまだからね。慰謝料は父親から借りたみたいよ」
「彼は俺たちが昔からつき合っていたなんて、思いもしないだろうな」
「あまり苛めないであげてね。彼、落ち込みやすいから」
「悪い女だ……」
(了)
