僕はどうやら自分の体をどこかに落としてしまったらしい。今電車に乗って吊革につかまっているのだが、つかまっているはずの右手が見えないのだ。驚いた僕は自分の胴体や足を確認してみたが、やはり同様に見えない。
次の停車駅で途中下車することにした。きっと遺失物取扱所が駅の構内にあるに違いない。とりあえず遺失届を出しておかなくては。
でも体を失った僕は透明人間のようなものだ。遺失物取扱所へ行っても係員が僕を認識できなければ、尋ねることも書類を書くこともできない。
「おい、山田君じゃないか」
たしかに僕の名字は山田だ。でも、ひょっとしたら、その男は僕じゃなく、僕の近くにいる別の『山田くん』に声を掛けたのではないか。よくある名字だから、そのようなことがあってもおかしくはない。僕はキョロキョロ周囲を見回したが、僕の周りには誰もいなかった。
――ひょっとすると、その男にだけ僕の姿が見えているのか。それにしてもいったい誰なんだ?
男の顔を凝視した。あぁ、思い出した。男は中学時代同級生だった鈴木君だ。あまり喋ったことないし、おとなしい男だったので度忘れしていたが、間違いない。鈴木君だ。
「鈴木君……かい?」
「あぁ、鈴木だよ。よかったぁ、思い出してくれて。知らないと言われたらどうしようかと思ったよ」
話をすると、鈴木君も僕と同じで自分の体が見えないらしい。他人からは見えるのに自分には見えないとはいったいどういうことなんだ。
僕たちは遺失物取扱所へと急いだ。自分一人じゃないのは心強い。事務室のドアを開けると、人が湧いていた。みんな口々に『自分の体を失くした、何とかしてくれ!』と喚きたてている。
遺失係の若い男が大声で言った。
「みなさん、落ちついてください。私の目にはみなさんの姿が見えます。つまり、失くしたのではなく、みなさんの目か脳の問題です」
「なんだと! そんなバカなことがあるか!」
「そうだ、そうだ」
「わいわいがやがや」
収拾がつかなくなった現場で、若い係員はなすすべもなく途方に暮れていた。
その時、部屋の奥のドアが開き、ひとりの中年男が入ってきた。どうやら若い係員の上司らしい。中年男は我々をぐるっと見回すと、おもむろに口を開いた。
「みなさんは人生という旅の途中で、自分を見失ってしまった人たちなのです。だから自分の姿が見えないんです」
中年男がそう言った途端、あたりは水を打ったように、しぃんと静まり返った。図星を突かれたのだ。僕もそうだった。
――あぁ、そういうことか。僕は電車に乗る前の自分のことを思い出した。
僕は大学受験に失敗して浪人中だった。父とは喧嘩し、一年間つき合った彼女とも昨日別れて失意のどん底にあった。大学受験に失敗したのは、受験当日、風邪をひいたせいだ。父と喧嘩したのは、父が僕のことを理解してくれなかったからだ。僕はほんとうは大学に行くよりもギタリストになりたかったのに、父がそれを認めてくれなかったのだ。彼女と別れたのは、彼女が他の男を好きになったせいだ。僕はなんて不運な男なんだろう。
いろんな不幸をしょい込み、目的もなくとぼとぼと歩いていると、見慣れぬ駅に辿り着いた。駅の玄関には告知板が掛かっている。
『人生に絶望した人は、ここから電車に乗ってお行きなさい』
――電車に乗ってどこへ行くんだ? 何があるというんだ? まぁ、ヒマだし、やることもないので、とりあえず乗ってみるか。
僕は切符を買い、電車に乗った。電車はどよんと暗い顔をした乗客たちで満員だった。座席は空いていない。仕方ないので吊革につかまっていた。
中年男は再度口を開いた。
「どうしよう? 山田君」
僕たちは下りの電車に乗ることを選んだ。そうなんだ、悪いことが起こると、他人や運の悪さのせいにばかりしていたから、僕は駄目だったんだ。鈴木君もそうだったらしい。もう一度、自分の人生を、自分の頭と足を使ってやり直そう。そう考えた僕は少しだけ心が軽くなった気がした。
