第3章 記憶
私にはあまり幼い頃の記憶がない……。小学4年生の初め頃だったと思うが、酒臭い父の怒鳴り声と母への暴力、母の悲鳴が私の記憶の始まりだった。私は父が怒鳴り始めると、いつも部屋の隅で震えていた。父に対しては恐怖心しかなかった。一度、母への暴力を見るに見かねて、「やめて!」と言いながら、父にしがみついたことがある。父は「このやろう! 何をしやがる!」と言って、私を殴り飛ばした。私は柱に思いっきり頭をぶつけ、「痛いっ!」と叫んだ。母は私を庇うわけでもなく、呆然とした顔で、その様子を見ていた。
父の唯一の趣味はパチンコだった。仕事が終わると、必ずと言っていいほどパチンコ屋に行っていた。大勝ちした日は上機嫌だった。そういう日は母もにこやかで、和やかに一家団欒のひとときを過ごした。
「薫、小遣いをやろう」と言って、1,000円くれたこともあった。だが、そういう日は数えるほどしかなかった。大半は負けていたからだ。負けた日はすぐに解る。帰宅した時、外で、ガシャーンとすごい音がするのだ。乗っていた自転車を家の壁に乱暴に放り投げるように置いた音だった。その音を聞くと、恐怖感でいっぱいになった。あぁ、また今晩も荒れるんだろうな……。
父がそうなってしまった原因は、もう少し大きくなってから知った。父は建築資材販売の中堅会社に勤めていた。もともと短気な性格で、仕事でもその短気さが出ていたのだろう。しょっちゅうトラブルを起こしていたらしい。そのせいで同期や後輩が出世していく中、父は平社員のままだった。その憂さ晴らしにパチンコをするようになり、負けて帰ると酒を呷って母や私に八つ当たりするようになった。お金がなくなると、あちらこちらで借金を重ねていた。最後にはサラ金にまで手を出し始めた。当然、借金は一気に膨れ上がり、柄の悪い取り立て屋が次から次へと家に押しかけてきた。そして、父はとうとう蒸発してしまった。私が中学1年生になった頃だった。
父が行方不明になったあと、母は夜、繁華街のスナックに働きに出るようになった。必然的に私はひとりで夜を過ごしていた。父の残した借金と生活のためには仕方がない。私は夜ひとりで過ごす辛さよりも、父がいない嬉しさのほうが大きかった。母と私は表面上は普通に接していた。たしかに母は父の理不尽な暴力によく耐えたし、ものすごく気の毒な人だと思う。でも、私は本心では母も憎んでいた。父がああなってしまった責任の一端は母にもあると思っていた。母は父の言うことに一切逆らわず生きてきた。その結果、ますます父の傲慢さと粗暴さを増長させたのだと思う。
父は私をからかって遊ぶことがよくあった。それは機嫌が良い時だ。そういう時は軽く小突いたりする。ある時、それがあまりにもしつこかったので私は我慢ができなくなり、父の手を邪険に振り払った。その瞬間、父の顔色が変わり私を本気で殴り始めた。私が鼻血を出してもお構いなしで何度も何度も……。母はその様子を初めから見ていた。そして、私にこう言った。
「早くお父さんに謝りなさい!」
その日から私は母を憎むようになった。母は私を愛してなんかいない! 母親なら身をていしてでも、我が子を守るものじゃないだろうか。母は今のひとときが平和でさえあればいいという考え方なのだ。そのために父を怒らさないように、いつも気を遣っていた。父が私を怒っていると、母は父と一緒になって私を怒った。父へのご機嫌取りのためだった。たとえ、私が何ひとつ悪くない理不尽な理由で怒られていたとしても。
私は堰を切ったように悟に話し続けた。こんな話は今まで誰にもしたことがなかった。私は止め処なく涙が溢れてきた。あれ、どうしたんだろう? 知り合って間もない男子の前で泣くなんて……。悟も目にうっすらと涙を浮かべている。もらい泣きしたのだろうか。
その時、悟の携帯電話の呼び出し音が鳴った。悟は「ちょっと、ごめん」と言って通話ボタンを押した。「もしもし」と小声で出たあとも、思いっきり小さな声で会話している。まるで私には聞かせたくないことを話しているような感じだ。いったい誰と何を話しているのだろう? 盗み聞きするつもりはないけど、窓の外を見るフリをしながら悟の言葉を聴き取ろうとした。でも、相槌を打つ以外は悟のほうから話しかけることはなく、内容はぜんぜん解らない。電話を切る少し前に「母さんは」と「今週の土曜日」と、悟が言ったのだけは解った。
母さん……悟の母親のことだろうか? とすれば電話の相手は身内の人かもしれない。でも、身内の人と話すのに私に気を遣って小声で話す理由がよく解らない。私とは関係ないことだろうし。そういえば悟の家族のことは、まったく聞いていなかった。まだ、そんなに親しい付き合いではないので当然だけど、この際、聞いてみることにした。
「今の電話、身内の方?」
「うん、父さん」
「悟の家って、どんな家族構成なの?」
「両親と子供は俺ひとり」
「私と同じ、一人っ子なんだ」
「そうだね、薫と話していてどこか安心感があるのは、そのせいかも」
安心感がある……私が感じていることと同じだ。内心嬉しかった。悟はあまり家族のことは話したがらなかったので、それ以上のことを聞くのはやめた。悟のことはいまいちよく解らなかったけど、自分の抱えていた重い過去を初めて人に話したことで、何かすっきりしたような気がする。
(続く)