東京の下町 蒲田の想い出 | 秋 浩輝のONE MAN BAND

秋 浩輝のONE MAN BAND

はじめに言葉はない

小学1年生の初めに大病を患い、東京の慈恵医大に数ヶ月入院した。生存確率50%だったのを何とか乗り切り、 生きながらえて、今日に至っている。それから毎年夏休みに慈恵医大で精密検査を受けることになっていた私は、東京の蒲田にある祖父母の家(父の実家)で一ヶ月間過ごすのが恒例になっていた。毎年夏、父の東京出張が必ずあったので、行きは連れて行ってもらい、出張が終わると、父一人だけ家に帰り、私は祖父母の家に預けられていたのだ。そして、夏休みが終わる頃、母が東京まで迎えに来てくれた。

私は優しかった祖父母が大好きだった。東京の下町である蒲田の雰囲気も気に入っていたので、一ヶ月間、ホームシックに陥ることもなく、楽しい毎日を過ごしていた。祖父は暇があると、東京見物に連れて行ってくれた。東京タワー、明治神宮、皇居などで撮ってもらった写真がたくさん残っている。

何より気に入っていたのは、祖父母が駄菓子屋と貸本業を営んでいたから、時々、店番をしていた祖母の目を盗んで駄菓子を盗み食いし、貸本の漫画を読むことが出来たことである。屋号は「よろずや」だったと記憶している。

祖父は写真館も営んでおり、家の中には数多くのクラシックなカメラや暗室があった。元々、祖父はカメラマンが生業で、戦前は皇室の専属カメラマンとして、昭和天皇や皇后の正式な写真を撮っていた人である。なので、遺品として家の中には若き日の昭和天皇の写真がたくさん残っている。中には大正天皇の写真もあったが、祖父が撮ったものかどうかは判らない。

皇室の御用達のカメラマンになれたのは祖父自身の力ではなく、祖父の伯父が明治時代に、写真の製版技術をアメリカから日本に初めて持ち込んだ、その世界では歴史的な人物だったという威光のお蔭だった。祖父の伯父には実子がおらず、製版会社を継ぐのは祖父と決まっていた。第二次世界大戦、東京大空襲ですべてを失うまで、銀座、新橋、蒲田に製版工場や写真館を所有、祖父はその恩恵を受けて、一時的に財をなしていたらしい。だが、祖父に商売の才覚はなく、戦後のどさくさに紛れて人に騙され、安価で土地を売却、すべてを食いつぶしてしまった。

その後、昭和30年代に始めた駄菓子屋や貸本業が儲かるはずもなく、あっという間に貧乏生活を余儀なくされた。その両極端の生活を味わった私の父は、祖父のだらしなさや才覚のなさをひどく憎んでいた。 もちろん、子供時代の私は、そんな話はまったく知らないし、理解できるはずもない。

ちょうど私と同年代の子供たちが、10円玉を握りしめて、駄菓子を買い求めに「よろずや」に大勢やってきたことをよく覚えている。子供たちは、奥にいる祖母に、駄菓子を買いに来たことを知らせるのに必ず使う言葉があった。そのおっとりした言葉の響きは、今でも懐かしく思い出される。

「ちょうだいな~」