伝統文化と外国人

伝統文化を残していく上で、外国の人が伝統文化の継承に関与することを良しとしない人がいます。日本文化を残していくのは日本人だ!と主張しているわけですね。

 

伝統や文化を残していく上で、日本人も外国人もないと思いますが、彼らはいったい伝統文化をなんだと思っているのか?国民を証する際のアイデンティティのひとつにでも数えているのでしょうか。海外の人が日本文化を愛してしまうと、日本人を証明する道具がなくなってしまう。そんな危機感を抱えているのかもしれません。

 

自国の良さに気づくのは容易ではありません。隣の芝生は青いということわざが物語るように、人と言う生き物はどうも他人や海外の人の暮らしが羨ましく思えてしまうものです。一方で海外の人の話を聞いて、日本文化の尊さ・繊細さを改めて実感させられたりします。

 

個人的には海外の人の方が日本文化を継承するにより相応しい人材と感じています。もちろん、日本人の伝統文化に対する“誇り”には目を見張るものがありますが、日本文化を愛する海外の人の情熱には敬服するばかりです。

 

しかし、実際に伝統文化を継承していくうえで困難は山積しており、日本人による努力が欠かせないのは事実です。アニメやマンガなどのサブカルチャーは世界的な認知度が高く、日本人がほっといても当分はなくなることがないと思いますが、陶芸や織物などは外国人にとっても触れる機会が少なく、日本人が気を配っておかないと、知らぬ間に消え入りそうです。

 

また、外国人が日本文化に携わるなかにも弊害は多く、外国人に対する偏見や差別が彼らの情熱を削ぎ落とすことも少なくないそうです。(物語を物語る 日本文化を継承するものが日本人だと思うhttp://pcscd431.blog103.fc2.com/blog-entry-903.html

 

近世はグローバル化に伴う文化の画一化に対抗するようにして、多様性への理解・維持に向けた動きが活発になってきている。画一化の流れは文化だけでなく、民族や言語に及んでおり、人々のアイデンティティを傷つける事例も少なくない。こうした側面から、また民主主義における「少数意見の尊重」という視点からも、私は多様性への理解・維持はとても大事な活動であると感じています。

 

忌々しい悪習

一方で「伝統」という言葉を盾にして、忌々しい悪習を残そうとする権力や組織には心底腹が立ちます。

 

私が通っていた学校は中高一貫校で、高校に進学する際に外部生が半数ほど流入します。中高と校名をとって「操山(そうざん)ファミリー」と銘打って、生徒に共同体としての一体感を持たせようとしていたわけです。これはまさしく同化政策ではありませんか!

 

私は中学時代、生徒会副会長、生徒会長と歴任して、生徒の権利獲得に走り回った過去がありますが、当時「なぜ操山ファミリーなどという悪習を残そうとするのか?」と教師団に尋ねて回ったことがあります。しかし、誰一人として明確な答えを出せる大人はいませんでした。

 

彼らが生徒に帰属意識を持たせたいと思うのは、紛れもなく「管理しやすいから」です。生徒にねじ曲がった一体感を持たせることで、学校に有害な反発因子を抑圧し、権力者にとって都合のいい政策を実行する。そんな植民地支配まがいの同化政策を学校関係者はいけしゃあしゃあと執り行っているわけです。それも個人として十分に自立できていない生徒を相手に!

 

同化政策の弊害は高校進学の際にも現れました。外部生にとって内部生の放つ独特の一体感は、薄い壁となって馴染みにくさに繋がっていたと言います。操山ファミリーの名のもとに、着々と排外主義が育まれていたのです!

 

私は生徒会長の権限を以て、国家主義はやめろと声をあげ続けていたのですが、教師には「私は使役されている身だからどうすることもできない」と言われ、校長には「これは伝統だから今の私にはどうすることもできない」と言われ、良い様にたらい回しにされたわけです。忌々しい悪習を変えることができなかった己の未熟さを恥じて、せめて罪滅ぼしにと外部生に積極的に声をかけて回ったことを今でも覚えています。そして、操山ファミリーの名の下で排外主義は居座っていくことになりました。

 

私が学生として生活している間にも、学校をやめる人や学校を変える人が何人もいました。校風に合わないことや病休で友人と付き合いがなくなったことを理由に学校に行き辛くなる人がほとんどで、そこには学校に馴染めない人を徹底的に排除するような空気が深く関係していました。事実、「なまけものだ」「ズル休みだ」「俺たちはこんなに苦労して勉強してるのに楽しやがって」というような、学校に通えなくなった人を侮辱するような発言が聞かれました。

 

全体主義の継承

中でも一番震撼したのは一教師が発した「この学校が気に入らないならやめればいい」「高校は義務教育じゃないからいくらでも退学処分にできる」という言葉の数々。当時、私は「おいおい、そんなこと言ったら生徒の信用失うぞ」と唖然としたのですが、驚くことに彼の発言を真に受ける生徒たち。雇用責任も知らないし、人権教育も受けていない学生は、こんな馬鹿げた発言でも真に受けてしまい、あたかもそれが社会の在り方のように誤解してしまうのです。

 

こうして正しい知識を持たないがために、親から子へ、子から孫へというように全体主義なるものが着々と受け継がれていくのです。

 

こうした作為的な教育を受けて育った学生は社会人になって、個人は企業に尽くすものだ、さらには国に尽くすものだと倒錯して、身を粉にして働いていくわけです。労働基準法を無視した企業に「気に食わないならやめればいい」と脅されても、何一つ反論ができない。自分が長時間労働・過重労働で使役されたことを理由に、管理職に付いた暁には部下をゴミのように扱う。そんなDVのような連鎖。

 

私が伝統文化を残すことに賛同しているのはあくまで多様性の保存・維持を目的にしているからであって、伝統なんてものを守りたいなんて一度も思ったことはない。権力者は伝統という“あたかも美しく見える”言葉を濫用することで、忌々しい悪習を残してきたわけです。男性社会?国家主義?冗談じゃない。何が伝統だ。

 

私たちに必要なのは伝統なんかじゃない。歴史から得られる教訓、ただそれだけです。人権を侵害するような思想を誇らしげに享受する教育現場、労働者をゴミのように扱う企業、国民を馬鹿にする政治、なにもかも狂ってやがる。

 

 

 

ゆら