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~俺もないけど心配するな~

デュープラー英語学院の代表、hisasueの気ままなブログ

車の運転技術には、個人差がある。

「好き・嫌い」もあるだろうし「向き・不向き」もあるだろう。

しかし、運転の「上手・下手」というのは、単に個人の「好き・嫌い」や「向き・不向き」で済む話ではない。

運転の「上手・下手」というのは、時には「人の命」に関わることもある。

だから、車を運転する人間である以上、「運転が上達するよう努力し続ける」という義務を負うべきだと個人的には思う。

「運転は嫌いだし、向いていないから、下手のままでいい」と言っている人がいたら、それは「人の命」を軽んじていると言っても過言ではない。

そういう輩は車を運転すべきではない。電車やバスを使いなさい、と言いたくなる。


一方、運転が下手でも、「謙虚」な人もいる。

「運転は嫌いだし、向いていないけど、頑張って上達したい!」と願う人だ。

ところが、そういう人の中には「どうすれば運転が上手になるか分からない」という人もきっといることだろう。

そこで、私(運転が好きで、自分では向いていると思っていて、一応「普通自動車二種免許」を持っている私)が思う「車の運転の達人を目指して」実践するべきことなどを、ここでご紹介していこうと思う。


まず、運転が上手な人と下手の人の間には、「どんな運転が安全か?」という認識が違っていることがある、という点を指摘したい。

運転が下手な人にとっての「安全運転」とは、「ゆっくり走ること」であることが多い。

しかし、運転が上手な人にとっての「安全運転」とは、「ゆっくり走ること」では決してない。

では何なのか。

運転が上手な人にとっての「安全運転」とは、「見えている」ということである。

勘違いしないでほしいが、「見る」ことではない。

「見えている」ということが大事なのだ。

つまり、「見る」という努力をしても、「見えていない」のならば意味がない。

例えば、「カーブミラーの中」や「道路の上に落ちている障害物」や「バックミラー越しに見える後続車」など。

「見る」努力によって「見えている」のならば良いが、「見る」努力をしても「見えていない」こともある。

そこで、運転が上手な人は、「見えている」という状態になるまでは、決して車を動かさない。あるいは、決して車を加速させない。

時には「見えている」という状態になるまで減速したり、あるいは停止したりする。

ところが、運転が下手な人は、「見えている」という基準ではなく、「法定速度が○キロだから、これが安全」というように、法律が定めた速度を基準に「安全」か否かを判断してしまう。

しかし、法定速度で走っていても、「見えていないところ」にこそ、「人の命」と同じくらいの重みの「危険」が待ち受けているものなのだ。

「時速○○キロは安全で、それ以上は危険」という判断ではなく、

「自分に見えているスピードなら安全で、見えていないスピードなら危険」という判断が好ましい。

つまり、「見えている」という状態になるためのスピードには「個人差」があるので、人それぞれの「安全のスピード」も異なる、ということだ。

皆さんも是非、「見えている」ということを常に確認しながら、安全運転で、楽しく道を走りましょう!



昨日の夜、横浜から戻ってきた。

3日間(準備日を入れると4日間)にわたるパシフィコ横浜でのイベントの仕事だった。

今回は国際会議ではないけれど、展示会とワークショップという2つのイベントを同時に進行させるという点では大変さは同じだ。

そんなイベントの最中、12月1日の朝、高校時代の友人から、同じクラスだった同級生「O君」の訃報について知らされた。

O君とは、高校を卒業してからはまったく交流がなかったものの、私がアメリカへ行く直前のクラスでは、たまに一緒に帰ったりしていた。

体格はクラスで一番でかかっただろうか。

訃報を受けたものの、どのような経緯で亡くなったかについては全く聞かされていない。

その日の夜は、そのせいだろうか、スタッフみんなと食事しながら、いつも以上に飲み過ぎてしまった。

そのせいで翌日(昨日)は、ほぼ終日、強烈な二日酔いで苦しんだ。

関係者には迷惑をかけてしまい、本当に申し訳ない気持ちになった。反省。



それにしても、最近、人の死が、ものすごく身近なところで感じられるような気がする。

最近というより、今年は、だ。

人の命について、これほどたくさん、身近に感じたり、考えたりしたことは、これまでの私の人生ではなかった。

人はいつかは死ぬ運命にある。

自分は、いつまで、生きていられるのだろうか?

自分は、いつか必ずやってくるその時までに、どれだけのことができるのだろうか?

自分は、自分の命を、本当に自分が望むように使っているだろうか?

こんな風に、人や自分の「生」と「死」について、あれこれ、ぐるぐると考えてしまう。

そういうことに敏感になる年頃なのかな?(もうすぐ39歳)


昨日、スターチャンネル(だったかな?)で、映画「グリーンマイル」を観た。

スティーブンキング原作のこの映画、もう何年も前に観たのだけど、その時は、家で一人で観ていて、もう、涙がぼろぼろこぼれるくらいに泣いた。

私は、一人の時は意外に感情に素直な方なのだ。(誰だ、意外だなんて言ったのは!)(←自分だ)

昨日も、やっぱりほろっと来て泣きそうになったのだけど、そこはまあ、2回目だし(3回目だったかもしれないが)、多少疲れていたせいか、「半泣き」で食い止められた。

まあ、昨日も一人だったから別に食い止める必要もないんだけどね。

この映画は、「生」と「死」をテーマにしている(と勝手に思う)。

「生きる」ということは、「死ぬ」ということを前提にしている。

「死ぬ」という前提がなければ、人は、それほど必死に「生を生きる」ということをしないのではないか。

「グリーンマイル」を見終わって、ぼんやりとそんなことを考えた。