2012年が明けた。
去年、2011年はいろいろなことがあった。
誰にとっても、東日本大震災は大きな変化をもたらしたことと思う。
被災地では、おそらく仮設住宅の寒さで震えている人も少なくないだろう。
そういう人たちのことを想像するたび、あるいはテレビなどのメディアなどで目にするたび、私は、今の自分がどれほど恵まれているのかを感じずにはいられない。
私には寒さをしのげる家があるし、働く職場もある。
職場には、そう多くはないが、私の提供する授業カリキュラムを評価し、通いつづけてくれる生徒たちがいる。
また、私はとりあえず今のところ体に支障はない。
肉体的にも精神的にも、比較的健康な状態だと言える。
おそらく私と同じように、自分の恵まれた環境に感謝しながら、自分にできることをやろうと日々を過ごしている人も多いはず。
メディアでは、年末でも「被災地の今」を映し出し、今も地震や津波や原発の被害にあった人々が力強く生きている様を伝えた。
しかし、ひねくれ者の私は、別のことを同時に思う。
それは、寒さや不便さで苦しんでいる人がいるのは、日本の被災地だけではない、ということだ。
世界に目を向ければ、寒さや不便さを通り越して、餓えや疫病などに苦しんでいる人がたくさんいる。
日本人の多くは、おそらく、そういう人たちのことがメディアで毎日取り上げられれば、今の自分にも何かができるのではないかと、きっと感じるのだと思う。
東日本大震災の後、日本人の多くが、被災地のために何かができるのではないかと自問したはずだ。
日本人は、基本的には、そういう優しさと慈悲の心を持った民族なんだと、思う。
しかしメディアは、世界の餓えの現状を伝えるようなことはあまりしない。
また日本人の多くは、自分らの「国益」となることだけを追求し、他国の利益についてはあまり真剣に考えない。
断わっておくが、世界の発展途上の国々の貧困さと、東北の被災地の苦しみの、どちらの方が大変だとか、そういう話ではない。
人間は、私もそうだが、みんな忘れっぽい、ということだ。
自分が置かれた環境が、どれほど恵まれているのかをすぐに忘れてしまう。
そして、自分にないものを常に要求し、自分がほしいものが手に入らないことを国や政治や地域のせいにする。
自分が恵まれていないことを誰かのせいにする。
東北の被災地に住んでいなくても、日本人の多くが「がんばろう!日本」「がんばろう!東北」という思いで一つになった部分が、去年の日本には確かにあった。
しかし本当は、「がんばろう!世界」「がんばろう!地球」というように、グローバルで考えて、世界の不平等のために、自分に何ができるのかを考えることだってできるはずだ。
もし日本人が、東日本大震災を契機に東北地方の被災地の人たちに対して持った「慈悲の心」を世界の人々に向けて持つことができたなら、きっと、世界のどの国にもできないようなことが成し得るのではないかと思う。
日本は、そういう強さがある国だと思うし、そう信じたい。
弱っているのは東北だけではない。
もちろん、東北にボランティアにはまた行きたい。
だけど東北だけでなく、今こそ、世界に目を向けたいと思う。
その前に、自分をしっかり見つめることが肝要だ。
人の力になれる自分になっていることが大切なのだ。
私は、世界の役に立てるような仕事をしているのだろうか。
私は、世界につながるような仕事をしているのだろうか。
私は、自分が持っているものを「幸せ」として認識しているだろうか。
私は、自分が持っていないものを認識しすぎて、持っていないことをを誰かのせいにしていないだろうか。
私は、必要とする以上に「欲しがって」いないだろうか。
私は、自分が得ることよりも、「人に与える」ということの喜びを感じているだろうか。
私は、自分がちっぽけだと決めつけて、何もできないと思いこんでいないだろうか。
私は、自分が取るに足らない、無力な一人だと思いこんでいないだろうか。
私は、政治や社会や他人をあてにせず、自分のことを、自分でやりきれているだろうか。
困ったときこそ、苦しい時こそ、自分にこういうことを問いかけられる自分であり続けたい。
忘れっぽい自分だからこそ。