便器が壊れた。
水が流れなくなり業者に来てもらうと、水道部分が錆びていてもう
壊れているとのことだった。

セカンドオピニオンとして他の業者にも来てもらったが、査定の結果は同じだった。

トイレは買い替えざるを得なくなった。
そして、我が家のトイレにウォシュレットがつくことになった。
この我が家に、だ。


僕には子供の頃から嫌いなものが3つある。
家に庭があり、自分の部屋を持っていて
そしてトイレにウォシュレットがある奴だ。


家が狭すぎてろくに友達も呼べず、
自分の部屋もなく思春期になってもちんちんを安全にイジる場所すら存在せず、
シャワーを3分も浴びれば怒声が飛んできた貧困幼少期を過ごした僕にとって
ウォシュレットはブルジョワジーな家庭的憧れの象徴の1つだったのだ。


思えばトイレにはいろいろなものを落とした。

抜けたての乳歯を落としてありえんガン泣きをした。
食玩のオモチャも2つくらい落とした。
タッチペンを2本落としてイトーヨーカドーに買いに行った。
どうぶつの森のカセットも落とした。
イヤホンを落とした。
猫のゲロを数えきれないくらい流した。
無駄撃ち遺伝子もありえん情報漏洩した。


工事業者が来る直前、そんな思い出を振り返りながら
感謝を込めた、最後のありがとうを込めた渾身のをし、
その後丁寧に便器をピカピカに磨いた。

トイレをピカピカに磨いていると、この便器でクソをひり出し続けた長い年月の中で、
「トイレの神様」とかいう曲が流行っていた時期があったことをふと思い出した。


業者が来るまで少し時間があったので、久々に聴いてみたけどマジでクソみたいな曲だな・・・なんだアレ・・・
自分語り、ルッキズム、ジェンダーバイアスを助長する内容、倍速再生しても長い。
令和の現代に嫌われる要素の詰め合わせセットみたいな曲だった。

それらの要素を取り除いても、
「喧嘩したおばあちゃんほったらかして東京で自分の人生謳歌してたら
おばあちゃんしんじゃったー(T_T)」

みたいな隙自語としてもクソ度が高い内容。

逆にすごい。
大人になってから聴くと深みが増す曲とかならいっぱいあるけど、
大人になってから聴いたら中身が浅すぎてビビる曲もあるんだな・・・

Spotifyでトイレの神様(なぜか存在する後藤真希ver)を聞いていると、
玄関のチャイムが鳴り、業者のお兄さんが到着した。

やけに我が家の猫に懐かれるタイプの業者のお兄さんの手によって
あっという間にトイレは取り付けられ、
我が家のトイレにもウォシュレットが付いた。
シャワーを3分流して怒られていたあの頃から15年、
娯楽で(?)ケツに水を当て流す贅沢が許されるようになったのだ。

ウォシュレットのついたピカピカトイレは我が家のボロボロマンションには馴染んでおらず、
そこだけ我が家ではない公共施設であるかのような余所余所しさを放っていた。

せっかくトイレが新しくなっても先程ウンコをしたばかりなので
すぐにウンコが出るわけではない。
僕はウォシュレットを使うために、便意が湧き出るのを
この時期にクリスマスを待ち侘びる子供のように待ち焦がれた。

夜、いよいよ便意がやってきた。
訪れない便意はない、また次の季節が訪れるように。

元気なウンコをぶりぶりと放り出す。
目的のためのウンコではない、手段のためのウンコだ。
僕はウォシュレットを使う正当な手段としてウンコをしている。
ある意味人生で最もウンコに対して誠意のないウンコであった。

そしていよいよウォシュレットを押す。
「お~~!!!」
勢い良くケツぺたに水が当たる。
壁のボタンを操作し自分の*(Asterisk)の
位置へと水を呼び込む。
「おお~~~!」

「おお~・・・ああ、うん。」

まあ、こんなものか。
我が家に来ただけで、ウォシュレットはただのウォシュレットだもんな・・・
外の施設で使うウォシュレットと機能的にはなにも変わらないんだ。

ああ、そういえば
WBCで大谷翔平が「憧れるのはやめましょう」と言っていたな
僕はWCで大便小便をしながら思った。アスタリスクに水を注しながら。

ステータス的に、象徴的に憧れていたウォシュレットは、
28年の時を経て、ケツに水を当てるだけの機能に成り下がったのだ。


憧れていても、手に入ってしまえば、日常になってしまえば機能であり手段に過ぎない。
乗りたかった車だって、手に入れてしまったらただの移動手段に感じるかもしれない。
ずっと欲しかった腕時計だって、慣れてしまえば時間を見る手段にしか思えなくなるかもしれない。

だから僕は、今ある機能的に、手段として愛しているものを見つめ直すことにした。
とうに目新しさの無くなったスマホ、少しガタが来ているパソコン、ホコリの詰まったドライヤー。
汚れたカバン、切れ味の無くなった包丁。

今ある機能を果たせるように、手段としての力を発揮できるように、
普段怠っている類のメンテナンスを一斉に行った。

ただの"ケツを洗うだけの機能"への憧れを捨て、消化して昇華し、
普段お世話になっている"なくてはならないあたりまえの機能"のありがたみを思い出した。

僕はそんなうんちぷりぷりアプリオリをケツに水を当てられるまで忘れていたのだ。

目新しさや憧れ、ステータスに囚われ、
今ある機能、今ある手段のありがたみを忘れていた。

頭から水をかけられたように……
いや、ケツに水をかけたようにはっとした。

これを見ているみんなも、これからの年末シーズン、
今当たり前にこのブログを見ている端末や、
部屋を温めている使い古したストーブ、ちょっと汚れてきたマグカップなど、
普段身の回りにある機能のありがたみを思い出し、少しメンテナンスをしてあげると、
少し初心に還って、清々しい心で新しい年を迎えられるかもしれない。