1985/11/30 雑誌「週刊プロレスコミック」ダンプと長与の今昔物語 | 時系列でみる! 極悪同盟 ダンプ松本 ファンブログ

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極悪同盟(特にダンプ松本さん)のプロレスを時系列で整理します。思い入れのある雑誌処分のためブログに残して廃棄します。「テーマ別」で時系列で閲覧することができます。妄想で書くこともしばしばですが1年(+α)かけてやる予定です

1985/11/30号の週刊プロレスコミックにダンプの情報がありましたので引用します。

 

 

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秘話でつづるオレしか知らない女子プロレス


練習したくても教えてくれる人がいない

 

現在の女子プロレス、スターの頂点にたつのは、なんといってもクラッシュ・ギャルズの長与千種、そして極悪同盟のダンプ松本であろう。同じクラッシュ・ギャルズでも、長与はベアのライオネス飛鳥より、はるかに人気があるしダンプに至っては、とうとうソロLPの発売が決まるほどの悪人気である。
 

飛鳥と千種の人気の差の解明は、いずれ書いていくとして、今月注目したいのは、長与とダンプという、この抜きん出た。"善・悪"のスーパースターが、いずれも新人時代、まったくのダメレスラーだったことなのだ。じつはこの2人、同期の、"落ちこぼれ仲間"だったのである。
 

昭和55年春。ほとんど時を同じくして、ダンプと長与は女子プロレスに入門した。
 

2人は新人時代ほとんどダメレスラーの見本のような扱いを、会社から受けてきた。女子プロレスは1年間で約270日も試合をしている。そのうちの半分ぐらいは"旅"といわれる地方巡業で消化しているのだが、2週間、長くてひと月という"旅"が続くとき、長与とダンプは必ず巡業のメンバーから、はずされていた。その年(55年)、女子プロレスには、新人が例年になく多く、12人も入門していたので、巡業の経費節減のため、この2人の中で最も素質がないと思われた長与とダンプが、寮にいのこりを命じられていたのだ。

 

新人レスラーは、旅についていき、先輩レスラーからマナーを救わったり、稽古をつけてもらい、成長していくのだが、この2人には成長のチャンスすら与えてもらえなかったわけだ。2人は寮に残って、いつもポツーンとしていた。お金がなくなるとアルバイトもしにいった練習したくても練習を教えてくれるコーチも先輩もいない。きっとほかの同期の子たちは、先殻にしごかれて強くなって帰ってくるはず・・・。そう考えると、長与もダンプもあせる一方だった

 

敗戦続きの新人時代、「もう、やめたい・・・」

 

そしていつしかやる気を失い長与は本気で女子プロをやめることを考えていた。いや、いつやめてもおかしくないほど、とくに長与は落ち込んでいたのだ「私、やっと女子プロをやめる決心がついたんだ・・・」


あるとき、長与は私に晴れてれとした笑顔で、そのくせ、中けに寂しげな瞳で、話しかけてきたことを覚えている。長与は当時16歳。故郷長崎では空手も習い、プロレスが大好きで女子プロに飛び込んだ。が、残念ながらまだ筋肉がついておらず、頭でプロレスが考えられても、体が全然それについていかなかった。おまけに内臓を弱らせ、全身に湿疹ができるという、肌を見せる女子選手にとっては致命的な病気をわずらってしまった。これでは商品にならない・・・と会社に判断されてもおかしくない。
 

東京近郊の試合でも出場した試合は、負け続き。はい上がる糸口さえ探せないまま、長与のレスラー生命は、まさに風前のともしびだった。いや、消えていたといったほうが近い状態だったろう。
ダンプのほうもひどかった。ダンプはもちろん新人のころはそんなリングネームはつけてもちえず、本名の松本香で通していたが、
デビュー当時はただ太っているだけで、筋力はプロレスラーとして耐えられるほど鍛えられてはいなかったほかの選手より、よけいに肉をしょっている分だけ、ダンプが動けないのは当然。165センチの身長で体重は当時80キロ(現在100キロ)あった。新人だけでマラソンをやっても、ダンプはいつもダントツでビリだった。
 

ひとつの転機を境に、急速に駆けあがる

 

だが、こんな2人にも、ついに転機が訪れた。
女子プロレスには毎年末、その年の新人だけで争うトーナメントがあり、優勝者を新人王としているのだが、56年度の入門者が4人と少なかったため、55年度で1回戦負けだった長手に、翌年もう一度、新人王トーナメントの参加資格が与えられたのである。いくら長与が弱いからといっても、後輩に混じって負けるわけにはいかない長与は必死になって闘い勝ち上がっていった。

 

不思議なことに、いままではいくらやってもうまく試合に組み入れられなかった空手技も、自分より格下の後輩相手だと面白いように決まっていく。長時間、闘えるスタミナもつき、ちょうど伸び盛りの体に気持ちの張りが加わり、相乗効果で、長与はこの時期、めざましく成長。この年、期待の新人・立野記代を、まわし蹴りの連発でり、長与は一気にどん底から出していった。
 

ダンプのほうは、もっと下積みが長かった。重い体重を支える体力がついたとはいえ、元来の人のよさでどうしても悪役に徹しきれず、いつまでも中途半前座レスラーとして、もがき続けていたのだ。
 

だが59年1月、クレーン・ユウ(引退)とのタッグで、当時WWWA世界タッグ王者だった堀と大森のペアに挑戦が決まると、「初めて巡ってきたチャンスだ。絶対に逃がしたくない!」と一大決心。髪も金髪に染め、怖そうなメイクにもチャレンジし、極悪レスラーに大変身。
 

このときは試合には勝てなかったが、その闘いでヒール(悪役)としての自分に大いに自信をもち、その後の大活躍ぶりは、皆さん、ご存知のとおりである。

 

5人の女子プロスター 4人までが落ちこぼれ?
 

52年入門のジャガー横田(現WWWA世界王者)も、出世するまでは、なかなか注目を浴びることがなかった選手だし、53年入門のデビル雅美(現オール・パシフィック王者)も、54~55年は巨体を持てあました、単なる前座レスラーだった。
 

ライオネス飛鳥は、長与、ダンプと同じ55年入門だが、飛鳥はオーディションのときからすでに注目を受け、デビューした年にも新人王を獲得。まさに出世街道真っしぐらだったが、現在では、人気は同期の長与に逆転されてしまっている。
つまり、長与とダンプだけではない。現在の女子プロのスターを、この横田、デビル、飛鳥、長与、ダンプの5人とするならば、そのうちの4人までが"落ちこぼれ組"だったのだ。

 

いまでは長与もダンプも、当時の話をすると「あのころの話はやめてよ」と笑って逃げられるようになったが、私は彼女たちがファンから声援や罵声を浴びるのを見ていると、ふと昔のことを思い出し、なんともいえない不思議な気分になる。あのころ私が見たものは、一体なんだったのだろう。長与とダンプといえば、女子プロ界の暗闇で、もがいていたはずなのに...。大観衆の魂を揺さぶる試合を2人がリングですればするほど私は異次元に迷い込んだような気分にさせられるのだ。
きっと彼女たちは、ダメレスラーというらく印、コンプレックスを逆にバネとして、はい上がっていったのに違いない。
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新しい内容はあまりありません。入門から人気選手になるまでのプロレスラー人生が綴られています。

59/1月のWWWAで「髪を金髪に染めた」と書かれていますので、この試合から髪を金色にしたみたいです。しかし当時の写真をみると、この試合では全体を金髪にはしていないように見えます。

ジャガーもデビルも落ちこぼれと書かれていますが、目立たなかっただけで、長与とダンプほどの落ちこぼれではないような感じもします。