独自見解:1984年のまとめ 「松本香」からの変身~「ダンプ松本」に何が起こったのか | 時系列でみる! 極悪同盟 ダンプ松本 ファンブログ

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極悪同盟(特にダンプ松本さん)のプロレスを時系列で整理します。思い入れのある雑誌処分のためブログに残して廃棄します。「テーマ別」で時系列で閲覧することができます。妄想で書くこともしばしばですが1年(+α)かけてやる予定です

1984年1月~12月のダンプ松本改名後の試合を見て、それほどプロレスに詳しくない私が、生意気にも少し感想を書きたいと思います。

 

1984/1/4の後楽園ホールの試合から、リングネームを「松本香」改め「ダンプ松本」とし、悪に徹することを決意します。
 

1984/1/4 後楽園ホール


1984/12/10の大和車体工業体育館の最終戦に登場した「ダンプ松本」はすでに全国津々浦々に名が知られる日本中の嫌われ者、悪役レスラーとなっています。

 

実際に見比べると分かります。同じ"ダンプ松本"でも全然違うレスラーになっています。

 

 

●1984年にダンプ松本が成功した要因

 

クラッシュギャルズもそうですが、一年で知名度が大きく変化することがあります。ダンプ松本の場合、どのような要因が重なって、全国規模の知名度にまで成長したのでしょうか? 要因を探ります。

 

①リングネームを「ダンプ松本」に改名した

ご本人が一番の要因だと話しています。当時の著書から引用します。

「私じゃダメかい?」より---------------------------

入門して4年間の松本香は、悪役としてはまだハンパだった。

「青コーナー・・・マッツモトォ、カッオルゥ~」

これじゃワルをやって迫力がない。ゴングが鳴る前からかわいい子が出てきそうな感じだもの。それに手を挙げて登場するのがチビでデブ選手だと分かると、場内からは笑い声があがった。そうすると、お客は自分に対して親近感をもっちゃう。

「ダァンプゥ、マッツモトォ~」

これはズシリと肚にこたえる。リングネームだ。だからリングネームを変えたことが、自分が女子プロの世界で悪役として頂上へ登り詰められた一番の要因だって思ってるのさ。

ダンプ松本というリングネームに引っ張られ、押し上げられて、松本香は輝けた。

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②クラッシュ・ギャルズが大ブームになった

1984年はクラッシュギャルズに火が付いた年でした。1984/7/9からはフジテレビのゴールデンタイムで女子プロレスが放送されるほど、国民的な大人気となります。家族団らんの時間に、テレビで放映された影響は大きいです。

 

③極悪メイク・自己演出が際立った

悪役であり、しかも金髪、ロックバンド「KISS」をモチーフにしたというメイク、SMチックなポリス帽とムチ、横浜銀蝿を参考にしたという皮ジャケットなど、常識を破った反社会的で自己演出は、クラッシュギャルズよりも目立ちました。

 

④凶器攻撃に振り切った

1984年の時点で、ストロングスタイルのレスラーとしては、ダンプ松本は技が少なく、受け身もうまくないので、ストロングスタイルとしては実力不足でした。レスラーとしては欠点ですが、これが重要なポイントになります。

もちろん、会社命令で「お前は凶器を振り回せ、技を出すな」と言われたとご本人も話されていますが、ストロングスタイルで遅れをとっているからこそ、ヒールとして凶器攻撃に振り切ることが出来たと思います。なまじ受け身がうまいクレーン・ユウは、凶器で攻めるイメージよりも、ストロングスタイルでのやられ役のイメージが強いので、この2人はバランスは非常に良かったものの、ダンプ松本のほうが目立つ結果になったと思います。

 

上記はとても大きな要因です。では、もう少し細かい点を見ていきます。

 

⑤ここまで松本に大きなケガがなかった

全日本女子プロレスは年間300試合ほどを巡業する過酷な会社です。当然、選手は常にケガとの戦いとなります。そして多くの選手がケガで引退を余儀なくされています。

ダンプ松本は、1983年までにぎっくり腰や左じん帯が伸びたりといったケガはありますが、選手生命を脅かすまでのケガをせずに1984年のクラッシュブームを迎えることができたことは重要です。同期のタランチェラなどの有望な選手は、クラッシュブーム前にケガで引退してしまいました。

どうして松本に大きなケガが無かったのかというと、技の応酬となるメインよりも前座試合が多かったこと、そしてダンプには飛び技、例えばトップロープからの空中技や、場外への自爆技(プランチャー、トペ)、ヒザに多大な負担のかかる技をしていませんでした。これはレスラーとしては普通はマイナス点と考えますが、跳べないダンプ松本にはこれが逆に幸いしたと言えます。

(もっともダンプの場合は、自重の100kgだけで、何もしなくてもヒザへは相当な負担にはなっていますが・・・)

 

⑥チャンスまで待てた

1983年のまとめ項目にも書きましたが、「先輩たちがやめて自分にチャンスが回ってくるまで待つ」とご本人が話している通り、彼女には「待つ」能力があったことも重要です。1981年~1983年はどんなに活躍しても、女子プロレス自体がメディアに大きく取り上げられることはありませんでした。下火だったからです。

"松本香"というレスラーは、この時期は全く無名で、個人的な取材も一度も受けていません。女子プロレス閑散期を耐えて前座でもめげずに続けられた、この精神力が凄いです。

また、無名のレスラーだったことも幸いしています。デビル雅美のようにある程度箔のあるレスターだと、自分のスタイルを大きく変えることはできませんでしたが(ヒールからベビーにはなったが、中途半端な変化でした)、ダンプ松本の場合、それまでが無名だったため、別人になるくらいの、大きく路線変更をすることが可能だったと思います

 

⑦デビル雅美のベビーフェイス転向

⑧タランチェラのケガによる引退

2つは関連しているのでまとめてしまいますが、これも大きな出来事です。

まずはタランチェラ(伊藤浩江)について。松本と同じ55年組で、大森ゆかりなどと同様期待されてA班に配属されます。細身だがテクニシャンで物覚えがよく、2年目から「ワイルド香月」、3年目から「タランチェラ」とリングネームを変更します。55年組のベビーフェイスの大抜擢が大森ゆかりならば、ヒールの大抜擢は伊藤浩江です。彼女の試合をみると分かりますが、当時のヒールのお手本のような細身で筋肉が躍動する戦闘スタイル、凶器に頼らない荒技による反則で魅了します。私は個人的に伊藤浩江は55年組ではNo.1のテクニシャン、まさにファイターという感じのレスラーだと思います。

人員が少なかったデビル軍団の中で、デビル雅美が好きそうな大人の雰囲気を持ち、技もキレる彼女は、パートナーとして大抜擢されます。しかし自爆系の技によるケガ、さらに脱臼を繰り返し、短い選手生命となり、1984年に引退となります。

 

↓これがタランチェラのケガの場面(2つ)。最初は1982年、次は1983年だと思います。

 

この当時はヒールになりたい選手が少なく(ヒールはベストバウトも取れないし、日陰者となるため)、デビル軍団は5名(小松原も入れると6名)だけでした。序列で、No.2のタランチェラ、No.3のマスクド・ユウ、No.4の松本香、No.5の山崎五紀の5人で構成されていました。

タランチェラの引退は1983年末には決定されていたと思われ、そのときにデビル雅美はパートナーを失います。育てていた山崎五紀はまだ半人前。そうなるとマスクド・ユウか松本がパートナーとなりますが、デビルにとってはどちらも役不足だった、もしくは自分の目指す方向とは違う選手だったと思われます。デビルが目指すヒール像は、"デブで重量で圧倒する選手"ではなく、"テクニシャンで大人受けする妖艶なアダルチックなレスラー"だったんじゃないかと思います。自らの般若の面や紫の木刀からも見て取れます。

タランチェラがケガをしたことにより、デビル雅美は残ったマスクド・ユウと松本でヒール軍団を続けることを諦めた、もしくは面倒を見る気はなくなったと思います。デヒル軍団の解散は1984年の初頭で、ちょうどクラッシュ・ギャルズブーム前夜にぶつかります。

このタイミングが実に絶妙で、真にクラッシュ・ギャルズが全国人気になる1984年の7月頃です。デビル軍団解散後、松本とマスクド・ユウは誰も成り手がなくなったヒール役を一手に引き受けることになります。このとき、ついに松本にチャンスが訪れた、ということになります。奇跡的なタイミングです。これが1984/7月以降では遅すぎるし、1983年ではそこまでのクラッシュブームでもないので、会社が大いにバックアップすることもなかったかもしれません。

 

もし、タランチェラのケガがなく、デビル軍団が存続したら、全国的な知名度を得たのは、デビル&タランチェラのヒールコンビであり、松本&ユウの極悪同盟はなかったと思います。

つまりタランチェラのケガから始まるデビル軍団の解散劇、これがクラッシュブーム前夜に起こったのが大きいです。

 

参考

 

 

⑨ヒールレスラーが他に誰もいなかった

日本のプロレス、例えば男子プロレスではヒールレスラーはほとんど外国人レスラーでした。全日本女子プロレスだけが、和製のヒールレスラーを自前で育立ていた珍しい団体だったと思います。

いまでこそ、ヒールレスラーは人気がありますが、極悪同盟が誕生するまでは、喜んでヒールになるレスラーはほとんどいなかったと思います。

それが故、1984年初頭には、その全日本女子プロレスでも、ヒールレスラーの人材不足は深刻となり、会社も"落ちこぼれ"としていたダンプ松本とマスクド・ユウの2人だけになってしまいます。つまり、ベビーフェイスだらけの選手の中で、ヒールは圧倒的に目立つポジションだったということです。

もちろん、それを生かすも殺すも選手次第ですが、その点をフル活用したのが、ダンプ松本の才気あふれる部分です。

 

⑩クラッシュギャルズ(長与千種、ライオネス飛鳥)と同期だった

昭和55年組は13人いますが、クラッシュギャルズがダンプ松本の同期だったことは非常に重要です。もしクラッシュギャルズが先輩ならば松本は思い切った攻撃をしにくいですし、松本が先輩ならば逆にクラッシュギャルズがやりにくいでしょう。

松本は昭和54年にオーディションに合格しますが、プロテストに落ちて、一年を棒に振っています。しかし、それが運よくクラッシュギャルズの2人と同期になります。一年を棒に振りましたが、それが結局成功のルートを通ったように思えてなりません。

クラッシュと同期だからこそ、対等であり、相手を血まみれにするというムチャが出来たのです。現に、ダンプ松本はクラッシュギャルズや大森ゆかりといった同期の選手を血まみれにし、ライバルとします。それ以外の先輩や後輩は、そこまで血まみれの標的にすることは、あまりなかったように思います。


⑪イジメによる地獄を見て、底辺の挫折を何度も味わっていた

入門早々から先輩たちからイジメられ、会社からは「お前はいつでもやめていい」と言われます。それによる反骨精神と復讐心が生まれていました。「最後まで残って、会社に『絶対にやめないでくれ』と言われる選手になってやる!!」 この強靭な精神力こそが、実家に石を投げられてもプロとしてやり通すという覚悟を強くしていました。この挫折がなかったら、母親を危険に晒してまでのヒール行動は取れなかったかもしません。

1985年以降、エリートであるライオネス飛鳥はノイローゼになったり、大森ゆかりは空気のようになって半分腐りかけますが、ダンプ松本は一度底辺まで落ちたからこそ、何も怖い物はなかったように思われます。これは長与千種にもいえることです。

 

⑫体重がちょうど100kgになった

入門時75kgだった体重は、会社命令もあって1984年に100kgになりました。ちょうどクラッシュブームにあわせて、ピッタリ100kgに合わせてきているのです。

いままで見たこともないような太めなレスラーが、反社会的な衣装でヒロインを理不尽に叩きのめすという、女子プロレス史上に例を見ないセンセーショナルな光景を作り出しました。

 

⑬同期に100kgのクレーン・ユウ(本庄ゆかり)が、ヒールとしていた

同期に同じ落ちこぼれのクレーン・ユウ(本庄ゆかり)がいたのも、これまた偶然とは思えません。クレーンは身長が高い大女で、松本よりは当時はレスラーとして評価は高かったのですが、自己主張が下手なためか、マスクを被らされて、松本と同じくくすぶっていました。そしてデビル雅美からも見放されます。

1984年時点で、クレーンも合わせたかのように100kgの大台に乗りました(あくまで会社発表ですが)。2人合わせて「200kgコンビ」という怪物のようなインパクトを与えます。おそらくダンプひとりでは、順調に人気が出なかったと思います。クレーンとともに「200kgコンビ」という世にも恐ろしいコンビを組めたことは奇跡的です。

 

⑭年齢的に自分であれこれ考えられる年になっていた

ダンプは1984年の時点で23歳になっています。25歳定年説がある全日本女子プロレスではギリギリの遅咲きです。しかし、もしダンプがこのときにもっと若い年齢、例えば16歳だったらば、自分であれこれとアイデアを考えられなかった思います。例えば、顔のペイントはロックバントの「KISS」を参考にした、とありますが、16歳で洋楽の「KISS」に辿りつけるでしょうか。チェーンやポリス帽という、SMショップの発想に辿り着けるでしょうか。

また、松永高司社長と、きちんと会話ができたでしょうか。阿部四郎と綿密な作戦を考えられたでしょうか。高校を卒業し、年齢的にある程度社会を知っているからこそ、色々なアイデアが生まれたのではないでしょうか。また、年齢的にも最後のチャンス、つまり尻に火が付いた状態だったのも、逆に追い風になったと思います。

 

⑮4年間、ヒールとしての修行をしていた

松本は入門時からヒールとしてブラック軍団に入門しています。ヒールとして凶器をどのように使うのか、どのようにベビーフェイスを痛めつけて試合を盛り上げるのかを、4年間、鳴かず飛ばずではありますが、ヒールレスラーとしての基礎をじっくりと習得しています。

だからこそ、1984年から凶器攻撃に振り切ったレスラーになっても、試合をうまくコントロールできたのではないかと思います。

ブル中野の場合、ヒール修行はほぼなく、突然極悪同盟に入門させられたため、最初は凶器をまともに使うことすら出来ませんでしたし、ダンプがほぼマンツーマンで中野を鍛え、1年でなんとかヒールとして使えるようにしたんだと思います。ブルの場合、本当に「ヒールとは何か」ということを思考していったのは、ダンプが引退してからなんじゃないかと思います。

 

⑯松永高司会長が後押ししていた

会社の売上増進のため、クラッシュ・ギャルズの対抗馬として、極悪同盟を巨悪に仕立てようと会社が全面的にバックアップをしていたと思います。マンガの「ダンプ・ザ・ヒール」にもありますが、わざと「クラッシュ・ギャルズがお前の悪口を言った」と焚きつけたり、阿部四郎をレフェリーに必ずマッチングしたり、ファンからいくら抗議の電話が殺到しても、極悪の反則はOKとなります。またダンプ本人も松永会長に持ち上げられて、やる気が出たのではないでしょうか。

 

⑰55年組の同期がダンプの苦労を理解していた

ダンプは入門してからずっと目が出ず、一度も取材がなかったようです。それにもめげず、ダンプはバスの中ではムードメーカー的なキャラクターであったと聞いています(ぶるちゃんねるで、ブルが話していました)。努力してもなかなか実らない松本の苦労を知っているから同期だからこそ、長与、飛鳥、大森は、どんなにひどい凶器攻撃をされても、その試合で怒ることはあっても、ダンプのことをリング外でも本当に憎むことはなかったのかと思います(長与は一時的に会長の諫言によって、憎しみあっていたという話もありますが)。ダンプがヒールとして凶器でやりたい放題でも成立したのは、理解してくれる仲間に恵まれたこともあると思います。

 

 

色々と理由をあげましたが、当人が非常に努力した点もありますし、偶然そうなった部分もあります。どちらかというと、偶然、そうなった、そういう状況になっていたという部分が多いです。ダンプは強運の持ち主だと思います。

 

どれか一つが欠けても、1984年終了時の極悪同盟、ダンプ松本の形になっていなかったのではないかと思います。それだけ、色々な要素が入門してから1984年までに、積み重なっていたことが分かります。

つまり、名前を「ダンプ松本」に改名して、凶器攻撃に振り切ったから成功した、わけではないと思います。

もちろん改名は重要ですが、実はもっと根深いのです。1980年から下積みで、ダンプ自身が「4年間の遠回り・・もっと早くやる気になっていれば・・」とは話していたその4年間の耐えた時期こそが、肝なのです。そもそも54年にプロテストに落ちて1年間を棒に振り、結果的にクラッシュと同期となり、先輩にイジメられて反骨信が養われ、目的も分からずに体重だけは増えて100kgになり、ヒールとして無名な時期を過ごして突然彗星のごとく現れる巨悪、空白のような4年間、プロテスト不合格も入れると5年間は、決して遠回りではなく、1984年末の「クラッシュギャルズvs極悪同盟」がメインイベントになるための、実は最短ルートを通っていた、とも考えられるのです。

55年組でレスラーとして成功ルートを通っていたと思われた、大森ゆかりは1984年末には空気と化して、伊藤浩江はすでに引退してリングには立っていなかったのですから。

 

 

 

●「極悪同盟」が出来るまで道のり

 

「極悪同盟」というヒールチームは、ダンプ松本の登場とともにすぐに出来上がったチームではありません。内情が分からないので、1984年1月の時点で、内部的には決まっていたのかもしれませんが、放送席の志生野さんの実況を聞くと、そうではないように思います。

時系列として、どのようにチームが出来たのか、順を追って記載します。

 

① 1984/1/4の後楽園ホールで、リングネームを「松本香」から「ダンプ松本」に変更する。

② 1984/1/26に当時無敵だったダイナマイドギャルズと、ダンプとユウがWWWA世界タッグに挑戦する。(この時点でダンプとユウがタッグを組んでいくことが方針としてあったと思われる)

③ 1984/2月 ダンプが髪の毛を金髪に染める。

④ 1984/2/28 デビル軍団が解散。

⑤ 1984/3月 ダンプとマスクド・ユウがタッグを結成。ヒール役を一手に担う。

 コンビ名は「200kgコンビ」、「メガトンコンビ」。 

 公式パンフレットでは「ザ・ジョーズ」と記載される。

⑥ 1984/3月 ザ・ベートーベンがマネージャとして登場。リング外で暴れ始める。

⑦ 1984/3月 阿部四郎もダンプ、ユウに同調して、極悪レフェリーとなる。

⑧ 1984/4/1 後楽園ホールでクラッシュギャルズと対戦し、初めての大流血試合。この試合でクラッシュの対抗馬として急浮上する。

  またマスクド・ユウのマスクが剥がされ、クレーン・ユウに改名する。

⑨ 1984/6月 どくろ印に「極悪」と書かれた旗を掲げて入場を始める。

⑩ 1984/7月 入場曲に「ブラックデビル」のテーマを使い始める。

⑪ 1984/8月 「極悪同盟」というユニット名が志生野アナから伝えられる。

  実質上の「極悪同盟」の誕生。

⑫ 1984/10月 中野恵子が「極悪同盟」に加入する。

⑬ 1984/10月 ダンプ松本の凶器攻撃がエスカレートし、凶器攻撃はダンプ、クレーンはやられ役のような役回りが定着し始める。

  この頃にはクレーン・ユウよりもダンプが圧倒的に目立ち、ファンに憎悪を一身に浴びる。

 

 

●極悪同盟には優秀な人材が集まった

 

iphoneの世界的なヒットで、Apple社は世界一の企業となりました。主な創業者は3名。ビジョナーのスティーブ・ジョブス、開発のスティーブ・ウォズニアック、経営・投資家のマイク・マークラです。3人が3人とも優秀でそれぞれの役割を果たしていました。Microsoft社も同じです。巨大に成長する企業の創業メンバーというのは、偶然にも非常な優秀な人が集まっていることが多いです。

 

 

Appleと極悪同盟を比べるのはどうかと思いますが、極悪同盟の創業時(?)も、実に優秀な人材で構成されていました。

①ダンプ松本(反則役、憎まれ役。さらに最強のパフォーマー(として開花しつつある状態))

②クレーン・ユウ(なんでもできるスーパーサブ)

③阿部四郎(アシスト役、試合のコントローラー)

④ザ・ベートーベン(全日本女子プロレス興行株式会社のバックアップと考えてよい)
 

極悪同盟といえば、ダンプ松本のチームだと思う人が多いと思いますが、ダンプが引退するときに、ブルに極悪同盟を引き継がせようとしていたことから、設立当初はダンプを中心にするヒールチームを指していたと思われ、この4人(+会社のバックアップ)が極悪同盟の初期を作ったと思います。(とはいえ、今となってはダンプのチームとなりましたが)

 

この中のどの一人が欠けても、極悪同盟の急成長はなかったと思います。
 

当初は落ちこぼれと言われていたダンプやユウですが、この4名(+会社)がとにかく全員優秀なのです。細かくみていきましょう。

 

 

①ダンプ松本

 

 

まずリーダーとなったダンプ松本は、「今までで最も嫌われるNo.1ヒールになる」という明確な目標を持っていました。どうしたら目的が達成できるのか? 1984年時点では、ダンプ自身は意識していないかもしれませんが、結果として「従来のプロレスを破壊すること」になっていきます。彼女はそういう意味でフロンティアであり、その後もフォロアーと呼べるレスラーがおらず、唯一無二のレスラーです。「極悪同盟」の設計図を、会社や阿部四郎と共に試行錯誤しながら描いていき、それまでのヒール像とストロングスタイルのプロレスを、破壊した先進的なレスラーです。1984年の時点では、闇雲に凶器を振り回す悪役レスラーっぽく感じますが、すでに基盤が出来上がっています。ただ、まだダンプが最終的に目指した完成形に至っていないと思います。

 

ダンプは実行力がずば抜けていて、「やると決めたら徹底的にやる」とご本人も自己分析されています。目的のためなら、チェーンを振り回して相手の皮膚を剥ぐ、フォークで相手を血だらけにする、ラリアートで失神させる、病院送りにするなど、手加減無用の凶悪攻撃を仕掛けます。それまで全日本女子プロレスでは暗黙で「出血は避けよう」としていたところがあったようですが、ダンプはその禁を破り、リングを血に染め、狂気じみていきます。血といっても血のりではなく、男子プロレスのようにミスター高橋がカミソリでサッと切っていたわけでもありません。

彼女には時折、テレビを見ている人間も引いてしまう、狂気すら感じます。松永社長が「お前は凶器攻撃しかしなくて良い」と話していたといいますから、会社ぐるみだった点もあります。

この振り切り度こそ、ダンプ松本が一気に有名になっていく要因です。全日本女子プロレスの異常体質だからこそ、可能だったことだと思います。


また、ファンは要らない、サインや握手すらしない、怒声を浴びても喜んで受け入れる、といった徹底ぶりです。実家に石を投げられたり、母親と同年代の人に「本当にひどい人間ね」、「あなたの親はどういう教育をしたんだ?」と母親の人格まで否定されます。それでも多少心は痛めつつも、決して「悪」をやめようとはしませんでした。普通は親や親戚にまで迷惑がかかれば、辞めると思うのですが、揺るがない精神力、忍耐力が、ダンプを最終的にトップスターにまで押し上げた原動力になったと思います。

 

さらに自己演出能力。金髪、パンクファッション、反社会的な革ジャン、SM要素など、スタイルについてはすべて自分で考えたと言われています。自己演出能力にかけては、1985年以降はアーティストのレベルです。X JAPANのYOSHIKIのドラムの破壊がよく話題になりますが、ダンプ松本は毎回放送機材や会場を破壊していたわけで、邦楽ロックに先駆けています。

 

 

②クレーン・ユウ

 

 

意外と見逃されがちですが、クレーン・ユウがダンプ松本のパートナーであったことは非常に重要です。彼女こそ、極悪同盟・ダンプ松本に最も似合うパートナーであり、非常に優秀なNo.2です。

 

まずは体重が宣伝では100kgで、ダンプ&ユウで「200kgコンビ」、「メガトンコンビ」を組めたことが重要です。ダンプの初期パートナーが仮に「タランチェラ」や「山崎五紀」であったら、「200kgコンビ」という当時見たこともないインパクトのある巨漢チームは作れませんでした(200kgは今でも通用するインパクトがあると思います)。またクレーンは身長が173cmと女性としては非常に高く、ダンプがコミカルな体型なのに対し、クレーンは本当の大女という感じで、見た目はダンプ以上の迫力があります。また、ダンプのようにあまり濃いメイクをしなくても、素顔がスケバンのように怖くて、それもヒールとしてピッタリでした。

 

またレスリング技術は、ダンプよりもクレーンのほうが一枚上手だと思います。極悪同盟といっても、凶器ばかり使っていては、お客様もシラケてしまいます。ストロングスタイルが主流の世界において、当然「レスリング」をしなければなりません。その「レスリング」部分をうまく担当していたのがクレーン・ユウです。

ダンプとクレーンは、1984年の前半は2人とも同じこと(凶器攻撃と攻め受けのレスリング)をやっていましたが、1984年の後半になると、その役割は明確に変わっていきます。

お互いに得意な部分を、前面に出して色分けされます。これは明確に2人が相談したわけではなく、おそらく自然になったのではないかと思います。

 

ダンプ→凶器攻撃、フィニッシュ役、攻め役、嫌われ役

クレーン→受け役、やられ役、フォロー役

 

凶器をガンガンと使うのはダンプ松本で、レスリングシーンではクレーンを中心にして、相手に攻めさせ、得意の受け身でうまくやられている感じを出します。そして、クレーンがやられそうなところで、ダンプがまたもや凶器攻撃、そして最後はダンプがラリアートで沈める、という形が多いです。また3本勝負では、だいたい1本はクレーンがやられ役でフォールを取られています。

(この形、非常に似ている典型的なタッグチームがあり、それは「ザ・ロード・ウォリアーズ」です。パワーと筋肉美、スター性のあるアニマルと、いつもやられてピンチを作るホークです。ホークはプロレス通には人気が高いと思います。ダンプとクレーンのスタイルに似ています)

 

とはいえ、クレーンはそんな単純なレスラーではありません。非常に器用で、何でもできます。臨機応変にダンプをアシストし、時には攻守交替します。

フィニュッシュ技は、ダンプのラリアートような必殺技はありませんが、トップロープからのバケツ攻撃やギロチンなど、巨漢にも関わらず、自爆系、飛び技が多くて、レスラーとしてはダンプよりも華のある技を出します。この点は大森ゆかりに近い能力があります。

 

さらに凶器攻撃は「やる時はやる」という主義で、仲間がピンチになると、パイプ椅子で相手の頭を思いっきり殴ります。それもハンパではありません。また、鉄パイプ、一斗缶、チェーンを巧みに使い、場外乱闘でも体の大きさで相手に負けません。

 

ただし、フォークやハサミといった、相手を直接傷つける凶器は使っていません。相手を血まみれにしたり、髪の毛を切って喜んでパフォーマンスすることは、クレーンにはできなかったのだと思います。超一流になるには、何かが尖っている(抜きんでている)必要があります。ダンプは相手を血まみれにして、日本中からブーイングを受ける狂気的な部分が抜きんでていましたが、クレーンにはそこまでの自己主張はありませんでした。日を追って、リングを血に染めるダンプは「日本で一番殺したい人間」となり、格好のゴシップネタになったのにもかかわらず、クレーンはそうなりませんでした。

 

おそらくクレーンは性格が優しく、仲間意識が非常に強いんだと思います。だから同じ全日本女子プロレスの選手を血だらけにするのは抵抗があったんじゃないでしょうか。

仲間意識の強さに関して言えば、例えば、シングル戦ではクレーンが常にセコンドにいて、ダンプがピンチになると必ず助けていました。それは1981年に松本とユウがブラック軍団に入ったときから始まっています。ユウは常にダンプ(松本香)のそばにいて、事あるごとに乱入して助けに入っていました。

 

また、ダンプとクレーンは同期です。同期だからライバル心が強いですが、プロテスト不合格からの不遇時代を一緒に過ごし、5年も一緒にヒールをしているため、一言かけるだけで、次になにをするか、阿吽の呼吸で分かっていたんだと思います。

ただ、良くも悪くもお互いの良い所も悪い所も、全部見えていたんだと思います。

これはクラッシュキャルズの長与千種とライオネス飛鳥の関係に近いと思います。だから、1985年には2人は悲劇的な結末を迎えてしまいますが、それはまた1985年のときに記載したいと思います。

 

 

③阿部四郎

 

 

阿部四郎ほど存在感のある人はいませんでした。極悪同盟成功の立役者、1984年に関して言えば、ダンプ松本と同様の活躍をし、阿部四郎の方がファンに憎まれていた可能性があります。

リング上での嫌われ方は、当時の映像をみれば分かります。極悪チームの試合には会社が申し合わせたかのように、必ず阿部四郎がレフェリングをするようになっていきます。

最初は植田コミッショナーと揉めて出場停止の処分を受けたりしましたが、そのうち植田コミッショナーも、会社が仕組んでいるプロレスの構造が分かってきて、極悪の試合には必ず阿部四郎がレフェリングをすることを黙認していたと思います(ただしタイトルマッチを除く)。

 

阿部四郎の容姿は、どこにでもいる普通のおっさんです。いやそれ以上に、お腹が出ていて、ダメ親父の典型のような姿です。しかし、彼は希代のパフォーマーでした。そして試合を流れを読むレフェリング力にあります。

 

パフォーマーという点では、本来公平であるはずのレフェリーが、極悪と同じ格好をして極悪サイドからわざわざ入場をします。挑発的なパフォーマンスを確信して実行しています。入場から極悪に依怙贔屓をして、ファンをバカにします。レフェリーなのにアンフェア。ファンのフラストレーションを爆発させます。これが試合開始前からファンのテンションをマックスにし、ファンからは「カエレ!!」コールのオンパレードです。試合が始まるまでにファンのボルテージを上げ、フジテレビのカメラマンに対しても攻撃します。会場全体を異様な興奮状態にしていきます。試合前の徹底的な揉め事的なパフォーマンスは、1985年以降はダンプ松本が引き継いでいきますが、1984年は阿部四郎が担当していたといってよいと思います。


またレフェリングに関しては、極悪側が反則しているときは見て見ぬふり、ベビーフェイスが凶器を持つとキッチリとカウントを取るという点が阿部四郎最大の特徴です。これにより、極悪同盟は本来5カウント以上持てないはずの凶器を、永遠に使い続けることできるという恐ろしい仕組みを作ってしまいます。これはプロレスの破壊以外の何物でもなく、極悪同盟・ダンプ松本のプロレスの根底です。この仕組みをダンプと阿部四郎は1年をかけて、既成事実のように作りました。入場からずっと凶器を持ち、試合内でも凶器を延々と使っても反則負けにならないレスラーは、ダンプ松本だけです。(他にいたらすみません) これがダンプ松本を唯一無二のレスラーにしています。

 

当時の雑誌インタビューで、ダンプが「5カウント以内で凶器を手放せば違反ではない。だから何が悪いんだ」と話していますが、これは詭弁で阿部四郎がレフェリーの場合は、実はカウントなどどうでもいいのです。

 

また、阿部四郎ほど試合の流れを読み、芝居が上手なレフェリーは見たことがありません。ベビーフェイス側が抗議すれば、それを取り押さえるフリをして、極悪の凶器攻撃を増長させます。時にはジャガー横田に足をかけてスッ転ばさせて、それが偶然であるポーズを取ったり、ロープブレイクした足を蹴り飛ばします。さらに高速カウントを入れたりと、凄いアイデアを出してきます。

 

観客とベビーフェイスからブーイングが起きつつも、きちんと試合らしい試合にしてしまうのも特徴です。常に興行としてのプロレスを考えているからだと思います。彼は元々興行師ですから、お客様がどうしたらお金を払ってくれるのか、プロレスが盛り上がるか、理解していました。

常に極悪に肩入れするわけではありません。普段は普通に流して、肝心なところで肩入れしてきます。要所要所で極悪寄りなレフェリングを入れることで、極悪レフェリーの印象を強くしながらも、試合進行を妨げることはしません。例えば、3本勝負で1本目は極悪が勝利した場合、2本目では普通のカウント速度で、例えばクレーン・ユウに3カウントを入れます。プロレスとしての試合を面白くするためです。

 

阿部四郎は、ダンプ松本と同様、試合をコントロールする能力が凄いのです。

おそらく1984年の極悪同盟の試合は、すべて阿部四郎とダンプ松本が、コントロールしているはずです。私は阿部四郎は、プロレス界において、過小評価されている一人だと思います。もっと評価されるべきです。「全日本女子プロレス殿堂」に入ってもおかしくないと思うくらい時代を築いた人なんじゃないかと思います。

 

 

④ザ・ベートーベン(会社)

 

 

ザ・ベートーベン(ロッシー小川)は、他の3人と比べると活躍期間も短く、それほど活躍していない印象がありますが、彼を会社側の代表と考えれば、非常に重要な役周りです。

 

全日本女子プロレス興業株式会社は、落ちこぼれだったダンプ松本とマスクド・ユウの2人が、全女内で唯一のヒールチームとなることに、不安があったと思います。それまでヒールといえば、池下ユミ、マミ熊野、デビル雅美と、いずれもストロングスタイルでもトップクラスの実力者が努めていました。しかし、ダンプとユウのコンビは落ちこぼれ。ジャガー横田らの多くの実力者が集まったベビーフェイスに比べて、2人はストロングスタイルのレスリングではとても歯が立ちそうにありません。

 

しかも、会社はこのときクラッシュギャルズの売り出しに躍起でした。さらなる人気獲得のために、なんとしても嫌われ役を作る必要がありました。ところが昨年まで前座を行ったり来たりしている松本香が、名前を変えただけで突然実力者に変身するはずもありません。

 

そこで会社が考えたことは、ストロングスタイルを無視したヒール役でした。実力が足りないならば、別のものに置き換えれば良い、つまり反則です。実力で立ち向かえなければ、凶器で相手を痛めつければ良いのです。ダンプご本人が「お前は技はやらなくていい、凶器だけ振り回していろ」と会社に言われていたと話していますが、つまり、そういうことなのだと思います。

 

そして会社が用意したのは、阿部四郎(彼は勝手に動いたかもしれません)とザ・ベートーベンです。ダンプとユウの試合のレフェリーは必ず阿部四郎が配置されました。どんなに中高生の抗議の電話が殺到しても阿部四郎が配置され続けます。明らかに会社の手口です。阿部四郎が凶器を容認することで、ダンプとユウに長時間の反則攻撃を可能にしました。

 

そして、もう一人がザ・ベートーベン(ロッシー小川)です。ロッシー小川は長与千種のマネージャをしていたので、いかに長与を売り出すかを考えていたはずです。そのため中高生女性ファンに対して、正義vs悪、勧善懲悪の分かりやすいプロレスを展開させていきます。

 

このザ・ベートーベンに関しては、ロッシーの「実録女子プロレス秘史」に記載があります。

 

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クラッシュ誕生が1983年夏で、ブレイクしたのが1年後だった。この間の1年はクラッシュの下地を作る時期。同期でカラダが大きいだけで、くすぶっていた松本香がダンプ松本とマスクド・ユウがクラッシュのライバルに急浮上した。
たしか大島の合宿の時だったと記憶するが、帰りのフェリーの中で仰天プランが浮上した。 松永会長が「お前はクラッシュを売り出したいんだろ?だったら試合では覆面を被り極悪のマネー ジャーとなって、クラッシュの敵役をやって盛り上げたらどうだろう......」と、こんな無茶なアイデアを提案したきたのだ。
渋る私に対し「一回につき5000円の手当てを支払ってやる」と言う会長。この5000円という日当に釣られ、極悪同盟のマネージャー役を引き受けることにした。 月に4回もやれば、2万円の増収になる。ヒラ社員にとってこの日当は魅力だった。
昼はクラッシュを連れて取材活動をし、夜は興行で敵役に回る。事の是非よりも、クラッシュ売り出しにひと役買うことが最重要だったし、自分の実入りを考えればやるしかなかった。私はタイ ガーマスクを手掛けていた唯一のマスクメーカーだったOJISAN企画を訪ね、自分のマスクを オーダーした。黒生地に金の縁取り。マスク好きとしては、想定外の形でマスクと関わることになったのだ。マ ネージャーだからスーツを着用しよう、それも白のジャケットに黒のカラーシャツを着て。体格は 大きい方だったし、多少やられても大丈夫だと自負していた。

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ちなみに、この「ザ・ベートーベン」という名前は、いかにも当時のプロレスファンだったロッシー小川らしいネーミングです。安直すぎが故、いまとなっては一周回って、良いネーミングだったと思います。(^^;

設定は「メキシコから来た謎のマネージャ」なのですが、名前は西洋の「ベートーベン」。なぜか「ザ」という定冠詞付き。うさん臭さが爆発しています。これぞ、プロレスならではのネーミングです。

 

ザ・ベートーベンは、機材の破壊や、体育館の破壊、放送席の襲撃など、それまでのプロレスにない破壊活動を具体的に実践していきます。破壊に関しては、会社がクラッシュをプッシュするために積極的にすすめていたようです。

180cmほどある高身長とプロレスラーのような体躯、一張羅のスーツをまとった覆面の謎の男が、自ら先頭に立って「極悪」と描いた旗を掲げます。ダンプが考えたのだとは思いますが、ザ・ベートーベンはダンプとユウを導いていく役を演出をしていきます。たった2人のヒールで崖っぷちのダンプとユウにとって、ザ・ベートーベン(会社や松永社長)という強力な後ろ盾がついたことで、ダンプたちは自信を持って大胆な行動に出ることが出来たと思われます。

 

1984/3/17の桐生市民体育館で初登場すると、入場前に場内を一周して放送席を襲撃。さらに機材の破壊、従来のプロレスを破壊するかのような、凶器攻撃、反則のオンパレードをダンプとユウに促して、存在感をみせつけます。

このころから、ダンプとユウは、徐々にスタイルを身につけ、自分たちの方向性が明確になったと思います。

 

ザ・ベートーベン自身も、ベビーフェイスを無言で場外でいたぶり、ファンをキレされるという、阿部四郎と同じような悪質な嫌がらせ行動をし、ダンプとユウを日本中から嫌われるヒールレスラーに仕立てていきます。

ダンプとユウは1984年の7月くらいは、2人で十分に立ち回れるようになりましたので、ザ・ベートーベンの出番はなくなりましたが、初期にザ・ベートーベンというマネージャがいなけけば、極悪同盟の方向性はなかなか定まらずに、もっと時間がかかっていたと思います。

 

 

●極悪同盟の先進性

 

極悪同盟は女子プロレス界で、色々なことを新しく始めたという点で先進的です。

男子プロレスではすでに実施されていたこともありますが、女子プロレスでは革新的なことが多いです。

 

実施したこと→最初に始めた人(予想)                 

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金髪 → ダンプ松本

顔へのメイク →  ダンプ松本

ボディペイント → ダンプ松本

パンクファッション → ダンプ松本

露骨な不公平レフェリング → 阿部四郎

日本初の本格的マネージャ役 → ザ・ベートーベン

マネージャの試合乱入 → ザ・ベートーベン

カメラ目線でのアクション → 阿部四郎

テレビカメラマンへの攻撃 → 阿部四郎

入場時の場内一周 → ダンプ松本、ザ・ベートーベン

放送機材の破壊 → ザ・ベートーベン

チームによる集団戦法 → ダンプ松本

試合中のファン挑発 → ダンプ松本

永遠の凶器攻撃 → ダンプ松本・阿部四郎

 

一方のクラッシュギャルズにはどのくらいの先進的なことがあったでしょうか・・。

 

 

●55年組の動向

下記は私が考えた55年組の動向です。

 

 

・長与千種

クラッシュギャルズとして話題沸騰。ゴールデンタイムでの放送が始まった1984年7月以降は、雑誌やテレビで引っ張りだこの大忙し。「炎の聖書」がヒットして芸能活動も盛んに。一気に時代の寵児となる。実力的には不十分で、ライオネス飛鳥に頼った部分があるが、芸能的センスを徐々に発揮して、飛鳥よりも徐々に目立つ存在に。

 

・ライオネス飛鳥

長与千種同様に、クラッシュギャルズとして大人気に。この頃は長与千種とともに人気を二分する。やられ役の長与に対して、実力では圧倒的にこの頃は飛鳥が上だった。流血戦となっても、強靭なファイトスタイルで相手に立ち向かい、最後はファンの声援に応えて勝つという、シュートスタイルを取り入れつつのストロングスタイルの代表のような選手となる。

 

・ダンプ松本

史上最悪のヒールを目指し、ついに覚醒。極悪同盟をクレーン・ユウとともに結成。ファンにいかに嫌われるかを徹底的に追及し、実力不足な点は、徹底した反則攻撃、ラフファイトでクラッシュの対抗馬として一気に浮上。ゴールデンタイム進出以降は、異様なパンクスタイル、反社会的な行動が注目され、クラッシュを血だらけにする悪魔として、日本中の嫌われ者に。

 

・大森ゆかり

55年組の出世頭であり、WWWAタッグ王者としてクラッシュ・ギャルズのライバルの一番手となる。しかし、1984年の8月にWWWAタッグ王者を失うと、クラッシュ・ギャルズの中高生の圧倒的な人気の前に、存在感が薄まる。体型的にはスレンダーではないため、大森の凄さはミーハーファンには理解されにくかった。そのため、1984年後半になって、プロレス人生で初めてくすぶり始める。

 

・クレーン・ユウ

ダンプと共に極悪同盟の初期メンバーとなり、2人で「200kg」という世にも恐ろしいコンビを誕生させる。1984年の4月にマスクをとり、ついに素顔を晒す。それ以降はダンプのパンクファッシションを取り入れて、自らも金髪、サングラス、ポリス帽、皮ジャンのスタイルとし、ダンプと共に毒々しさを増す。くすぶっていたヒールとしての才能が、ダンプと共に開花。ストロングスタイルも凶器攻撃も器用にこなして、存在感バツグンのNo.2となる。

 

・タランチェラ

デビル軍団の副将として大活躍していたが、ヒザの故障により、1984年4月に引退。実力的にはダンプ、ユウを凌ぐテクニシャンだったが、クラッシュギャルズブームの前に去っていった惜しい逸材だった。