独りファシズム より。
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Animal Farm
2013年6月6日
この国の愚かさを、表象しえる語彙というものは存在するのだろうか?
それはおそらく反知識主義、反啓蒙主義、反進歩主義の類型であるのだが、理性の喪失はもはや社会狂気に到達しているのであり、これらのイディオムですら近似物に過ぎず、相当に精度を欠いているのだと思う。
危機は人間の核心を抉り出し、むしろ極限状態における振る舞いこそが本質であるのだけれど、そのような反応原理は国家も人間も変わりないのだろう。
「危機仮説」によると、反応プロセスは ①衝撃の段階 ②防御的対抗の段階 ③承認の段階 ④適応の段階 に区分されるという。このような有限個のステップを経て、我々の体系は原発事故というカタストロフィに対し、「問題先送り」を選択したのであり、それはつまりEscapism(現実逃避)を国是としたに等しい。
破損した原子炉から2年以上にわたり膨大な核が放出され、周辺地域の児童らが被曝を累積しているにかかわらず、行政も報道も隠蔽に狂奔しているのだが、次世代という最大の国家資源の毀損が、どのような破滅的結末をもたらすかは想像に難くないだろう。
繰り返すが、子供は近未来の労働者であり、納税者であり、消費者であり、経済活動も金融市場も社会保障も国債の償還ですら、彼らによる生産を担保としているのだから、疎開にかかわる支出を忌避するのであれば、それは国家の終焉宣言と同義である。
エリートの馬鹿さ加減を目撃するたびに思うのだが、結局のところ高偏差値を突破した彼らの知性というのは、出題傾向という枠内で精錬された局所的なものなのであり、高学歴も思考力を推し量るメルクマール(度量衡)の断片に過ぎないのだろう。つまり、馬鹿は馬鹿だということだ。
経済グループは消費者によって事業が成立するという理解がなく、官吏グループは納税者によって給与が拠出されるという自覚がなく、報道グループは視聴・購読者によってメディアが完結するという認識がなく、つまり国民社会の崩壊による自壊に気付くこともない。
これもまた、「ミクロにおいては合理的な行為が、マクロに波及すれば不合理へ発展する」という「合成の誤謬」の一形態であり、過剰な私的利益の追求が公的利益の破綻をもたらすという構造原理であり、早い話し、支配層に国家ヴィジョンなど微塵もなく、目先の金が彼らの全てであり、そのようなモラル不在によって民族社会が滅びるということだ。
都市圏では汚染給食を拒絶する女子児童が、非国民呼ばわりされる事態となっているのだが、時代空気むしろ時代狂気は大戦中のそれであり、つまり社会的迷妄は、「強制的同一性」というナチズムのセントラル・ドグマ(中心教義)を復古させたのである。
もはやこの体系においては、生命の尊さや人権の価値について、抽象し議論することなど叶わないのだろう。国民モデルはバラエティ番組の視聴者を基準としているのであり、つまりそれは最低レベルの知性に調整されているのであり、メディアが放出する痴愚は、噴霧された神経ドラッグのように充満し、我々の大脳皮質(高次元領域)を犯し続けている。
だからと言って、ネット住民が先鋭化しているわけでもない。むしろカスケード現象(電脳世界の局所的同一化)が進行し、自己改変よりも自己強化にアディクト(中毒的習慣化)しているだけのことだろう。情報空間の断片は体系として脳内に再編成を引き起すことがなく、文字化したビット群の大半は前頭葉を通過し、そのまま揮発するのみであり、結局、頭の中に大したものは残っていない。
記憶素子の容量は幾何級数的に増大しているが、肉体のワーキングメモリー(作業記憶領域)は依然として狭隘であり、知識の発酵には執拗な反復と、時間経過を要するのであり、本質として人間機能は退嬰的だ。我々は自分たちが思うほど賢くなってもいないし、幼稚症はネットでもリアルでも潜在している。
被爆地における児童放置は、紛れもなく違憲状態であるのだが、退行をプログラムされた我々はそのような悲惨を洞察することも、破壊される生命に同情することも、構造的暴力を観念化することすら叶わないのであり、それはおそらくSLAUGHTERHOUSE(屠殺場)に搬送された家畜が、解体される最中においても、事態を理解できないのと大差ないのだろう。