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DUMMY TIMES Ⅳ

http://blog.livedoor.jp/blogdummy/

‪もうじき職場も学校も再開する。‬
‪まだまだ懸念はあるが、次第に正常化すれば皆それぞれの居場所に戻っていく。‬
‪しかし僕のような稼業は仕事自体が正常化するとは限らない。‬
‪またフリーランスになったあの日からやり直しか。厳しいな。‬
‪でも何とかしなければ…。‬

facebook内で展開されたレコードバトンでしたが、図らずも自分のこれまでの活動を振り返る機会となり、自分的にも書き記しておきたいなと思ったのでまとめてみました。
記録として。
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その1:
油断してたら、スタッフとしても演者としてもお世話になっている阿部吉将氏からバトン。
という事で、音楽人生に影響を受けたアルバム10枚……。
あまり沢山は聴いてないので絞り出してみます。
が、一枚目からズルします。(笑
「TOMITA ON NHK 冨田勲 NHKテーマ音楽集」
https://columbia.jp/artist-in…/…/discography/COCQ-85246.html
これは音楽に触れた当時出てはいないアルバムですが、これらの音源はまだ幼かった僕の脳を直撃した音楽達です。
当然こうした形での音源化もされて居なかったので、という意味でこのアルバムを先ず第一に挙げます。
特にシンセサイザーという言葉すら知らなかった頃に「何だこの音は!?」と最初に意識した子供向け教育番組のテーマ曲、教養番組のジングル等々、興味の深化と不思議な原体験をした切っ掛けになったものですが、これが冨田さんの手による物だと知ったのはずっとずっとあとの話。
とにかく電子音と正面衝突した第一撃でした。


その2:
さて、#レコードバトン 二枚目ですが、時系列で言えば他に一枚考えていたんだけど、故あって一枚すっ飛ばしてこれです。(珍しく、今一瞬だけ忙しいので曲毎のレビューは勘弁ね/汗)
クラフトワーク「人間解体」
https://www.amazon.co.jp/%E4%BA%BA%E9%96%93%E8…/…/B00005GL2S
クラフトワーク自体は、それまでも音楽雑誌やレコード屋の棚で見かけて何となくは知ってたけれど、このアルバムとの出会いはタイトルも衝撃的でしたが、この見てくれにもやられました。
当時、小遣いでレコード買うのは相当の覚悟が要ったので、最初は知り合いにカセットを借りて聴きまくり、その後レンタルレコードでダビング。ヨレヨレになるまで聴きました。
あほ小学生人生の始まりです。


その3:
#レコードバトン 三枚目。
件の、昨日アップしようとしていたアルバム。
自分の小遣いで初めて買ったのは、当時たまたま見ていた音楽番組での受賞の瞬間を目撃してしまって気になっていたTwist(世良公則&ツイスト)のファーストで、勿論かっこいいとは思って聴いていたのだったが、実は同時に姉が買ったこっちが妙に気になり、借りて聴いてるうちにハマってしまったのが原田真二の「Feel Happy」。
http://music-calendar.jp/2016022101
初めて、編曲の面白さに気付いた作品かもしれない。
のちに、この仕事に就き懇意となるアレンジャーの知り合いとも、たまたまこのアルバムの話になり、彼をもってしてもとても上質なアレンジであるらしく、珠玉のアルバムだという事を知る。
とにかく、当時のベストテン番組で知ってた曲以外にも聴き応えのある物ばかりで、’音楽’を意識させられた一枚だった。
仕事を始めてからもCDでも入手し、たまに聴き返しているが、普段自分がやってる音楽とは正反対だけど、一枚聴き終わってとてもフラットな気分になる。


その4:
#レコードバトン 四枚目は言わずと知れたこれ。
「YELLOW MAGIC ORCHESTRA」
https://www.amazon.co.jp/%E3%82%A4%E3%82%A8%E3…/…/B00007KKZ1
近くに住んでた少し年上の従姉は、小学生にとっては大人なカルチャーの情報源で、新し物好きな姉もまた僕とは違うアンテナでいつの間にか知らない物を輸入してくる人でもあった。
このアルバムも、いつの間にか姉が情報を得ていて、ある日レコード屋で姉が購入。
早速家に帰ってこの奇妙で異様なジャケットに得体の知れない物を感じつつ針を落とすと、それまでに知った、トミタサウンドともクラフトワークとも違う面白さがあった。
また、冒頭に商店街(その頃住んでた街の商店街は地元では結構大きなアーケード商店街だった)でよく見かけたゲームのあの音を模した物であった事も興味を引く要因であったかも知れない。
今考えたら「テクノとは!?」と何度か振り返る転機になった作品でもあるけど、ほどなくしてセカンドのヒットと相俟ってますますシンセサイザーでの音作り、シーケンスの構築美にどんどんハマって行く事になる切っ掛けになったアルバムでもある。
何度かここやインタヴューでも書いてるが、既に電子音楽にハマった後に引っ越した先の少し郊外ののんびりした街に、意外にも電子音楽好きの友達が何人か居て、最初は話す程度だったが、のちにエラいことが発覚。こともあろうかそのうちの一人は既にバンドもやっていて、メンバーである先輩の家には夥しい数の当時まだ高価であっただろう新製品の電子楽器が所狭しと並んでいて、中学に上がると休み毎にその電子音楽友達と連れ立ってにそこに入り浸った。
中学時代はもっぱら友達と手分けして購入したアルバムを貸し合い、ビデオレンタルでMVを借りては皆で鑑賞し、ラジオでエアチェックしたライブ放送をまねて、当時唯一触る事の出来たシンセMS-20や友人のうちの電子オルガンでコピーに興じ、当時造成途中だった、裏の工業団地で機材並べて爆音で練習、音楽雑誌を漁り読んでは友達と夜な夜な長電話で新製品についてアレコレ詮索する日々であった。


その5:
さてさて、#レコードバトン 五枚目は悩みどころ。
四枚目の流れは、後日気が向いたら分岐させるとして、次いきます。😁
意外に思う人も多いかと思いますが、これ。
「The Beatles / 1962-1966」
https://ja.wikipedia.org/…/%E3%82%B6%E3%83%BB%E3%83%93%E3%8…
こんなの挙げると、世の熱狂的な信者の皆さんにシバキ倒されると思います。
実際、これを挙げてる僕本人も意外です。(笑
というのも、自他共に認める程、僕は記憶を辿る限りでは自らの意思では全くロックを通って来てないのであります。
ただ、後々色々な辻褄を考えた時に、どうも思い当たるのが、ジャズ、ラテン、ムード音楽、スクリーンミュージック、そしてロックをこよなく好んで聴きまくっていた親父からの影響が間接的ではあるが少なからずあるかと。
切っ掛けは四枚目のグループのセカンド収録曲。また時期的にも当時の英語教師が大のビートルズファンで、わざわざ自らプリントして来た歌詞とラジカセで、活きた英語の使い方、歌詞と実際の歌唱での発音や響きの違いなど、曲に合わせて懇切丁寧に教えてくれた事だった。
それで、自宅に数あるレコードのなかで唯一親父がカセットに落として聴いていたのをこっそり自室に持ち込み、聴きまくっていた時期があった。
これは、前述のグループのリアレンジの妙と共に、原曲の持つ表現やハーモニーについてハッとさせられた一枚だった。
だから世に言うビートルズファンからは怒られそうだけど、随分遅れて(当時所属していたブラスバンド部で、演奏曲の一つとしては習っていたが)「ビートルズ」というグループを意識的に知ったアルバムであった。
でも、このお陰で、のちの仕事にもかなり共通語として知っておいて良かったし、このグループの後期の作品群なんかは、影響とまでは烏滸がましいけど、何かと自分が得意として来た手法や思想など共感する物を感じて、元祖がここにあった…!と感じた事が何度かあって、バンド活動などではいまだに一つのバイブルとなっている。
ただ、いまだにロックが何たるか、は理解し得ては居ないが、とてもスピリットを感じる物である事は間違いないようだ。
今思うと後にも先にもこの当時唯一シンセを使っていないバンドで聴いていたアルバムかもしれない。


その6:
折り返し。
ここから先が順列付け難く、また悩みそう。(汗
でも、やはり影響を受けたという事で六枚目はこれ。
「錻力の太鼓」
https://okmusic.jp/news/47588
とにかく唄モノとしてスッと入って来ただけでなく、リズムパターン、ベースライン、シンセの音色、それ以外に使用されている楽器やエフェクトの数々…。
それまでのグラムっぽい出で立ちとは打って変わって、前作と悩みましたがやっぱ「何じゃこりゃぁ!」な一枚です。
これはいまだに色んな意味でバイブルなアルバムであります。
この人達のMVも相当良かったなぁ。
これを切っ掛けに音の織り成す空間や、良い意味で曖昧で抽象的な音作り、不安定で不可思議な音の揺らぎについても考えるようになりました。
#レコードバトン


その7:
相当悩んで、同系列や支線はすっ飛ばして(何しろ十枚に収めねばならんので)次に大きな変革を迎えたアルバムとして七枚目はこれにする。
「Youthquake」
いわゆるユーロビートという言葉を知った頃に、専ら新しい音楽の情報源でもあった小~中学からのシンセ仲間やレコード屋の兄ちゃんからお勧めされて聴き出したのが最初だったと記憶してるが、とにかくシンセの嵐!どぎついミックス!これでもかというギミックが終始散りばめられて、激しいビートの物もメロディアスなミドルテンポの物も聴かせるバンドだなというのが第一印象で、ライブビデオもかなりショウアップされた物だった。
また、これ以降もバンバン出現するリミックスがまたトリッキーで、それまで割と保守的な音楽の聴き方をしていたんだなと思わされる程遊び心に溢れているものだった。
これを切っ掛けに、これらの他のリミックス等も気になり出し、様々なギミックの手法を当時の打ち込み仲間と休み毎に部屋に籠り、あーだこーだと色々試してみたりしていた時期でもあった。
また、サンプラーを攻撃的に使う!を始めたのもこの辺のリミックスから影響されたのかも知れない。
https://www.youtube.com/watch?v=PGNiXGX2nLU&feature=emb_logo
#レコードバトン


その8:
遂に #レコードバトン も八枚目。
別に8にちなんだ訳ではないけれど、次に大きな衝撃を受けたのがこれ。
「90」
https://ja.wikipedia.org/…/%E3%83%8A%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%8…
専門学校当時、よく遊んでもらってた講師でもあった先輩に勧められて聴いたのが最初。
確か気に入り過ぎてこっちに引っ越して来る新幹線の車中でもずっと聴きまくっていた。
英盤、米盤の他にも○○エディションなど複数のバージョンが存在するがどれも度肝を抜く仕上がりだった。
一言で言うなら荒削りにして破天荒なシンセの使い方だった。
遊びながら作ったのか!?というくらい同じリフを別の楽器で鳴らしたり、エフェクトがぶった切れていようがシンセのチューニングがおかしかろうがお構い無し!
でも、それが素人臭いという感じではなく、絶妙にカッコイイズレっ振りで、計算か?と思うくらいむしろ清々しい。
真似しようと思ってもこうはならない。
その後に続く数枚も、豪華なゲストを迎え、恐ろしい攻め具合であったけれど、やはりここに立ち戻る。
これまで挙げたどのアルバムも、それまでのシンセの使い方とは違うという衝撃であったけれども、これはまたそれらのどれとも違う、違うチャンネル…だけど、シンセの原点。サンプリングの散りばめ方も、最初にサンプラーを手に入れた時の面白さを思い出させてくれるような使い方で、とてつもなくエレクトリックなんだけどとてもプリミティブな印象を受ける一枚だった。
ちなみに、当時名前に騙されていた人も多かったが、使用されていたリズムマシンはR-8らしき音色が多く、その頃のスタジオでメインで使っていたリズムマシンもR-8だったので「ははぁーん、この機能使いよったな…。」とか一人ほくそ笑んでいた。(笑


その9:
#レコードバトン 九枚目。
やはり迷い続けて、迷った挙句手前味噌で済みません。
自分の音楽活動に影響…という意味で選んでみました。
「Escape」@Ambient7
https://okmusic.jp/Ambient%207
それまでも創作活動やライブ活動自体は行なって来たのですが、互いの音楽的趣味も活動エリアも職種も全く違う同士で何の助走期間も無く閃きのみでユニットを組むという、自分の中では初の試みだった。
また、初の主催イベントを開いたり、初の海外(しかも初渡航)ライブを行ったり、初の自分たちのレーベルを作ったり、初の人との本格的な曲作りだったり、初の自分(の名が刻まれた)達名義のアルバムだったりお初だらけの経験で、おそらくこれが無かったら今みたいな活動はしてなかったかも。というくらい自分の表現について改めて考えたり、他流試合的なライブの原点となった作品かも。
リンクはちょっと情報の不足してる部分もあるけど、現存する数少ないレビュー。(笑
このあと、更に二枚アルバムを作って、その間も別名義で何枚か、あとリミックスワークや楽曲提供、CM音楽や空間音響等も同じチームで沢山手がけたな。
そういう意味では、単に「アンビエント好き?」という一言で僕を引っ張り出してくれた、千可さん、池淵君には大感謝です。
これを引っさげてプロモーションやら道場破りのようなライブもいっぱいやったけど、そのお陰で沢山のすんごい知り合いや友達とも出会えたし、自分なりの即興に対するノウハウや、人と演る打ち込みについても沢山学んだなぁ。
今でも時々聴きます。
ある意味、スピーカーの前にどしっと座って「聴こう」という姿勢を諦めさせられるような音場がいいなと思っていたところ、マスタリングは当時コロムビアにいらしたH坂弘幸氏にお願いしたのですが、途中入って来られたスタッフの方に「イーノの新作ですか?」と云われて嬉しかったり恐縮したり…。(汗
それと、ここだけの話。H坂さんは検聴時にスヤスヤ寝てしまわれて、逆に「よっしゃー!」って思いました。😄


その10:
十枚目は明け方と共に。(5/15午前4時頃執筆)
これも、手前味噌ではありますが、一枚目とはまた違う形で、また九枚目とも違う初体験として、色んな意味で自分への影響を再確認した一枚です。
「イーハトーヴ交響曲」
https://www.youtube.com/watch?v=wL8rLJirHVc
正確には、アルバムに参加したというよりも、自分も参加させてもらったコンサートを収録したものですが、様々な偶然と縁を感じました。
何度もここで白状(笑)してますが、実はこの初演にはチケット買って観に行くつもりでした。
ところが、暑さも残るある日の仕事の帰りの電車でKとぶきさんからヘルプメール。
とりあえず状況を訊いて翌日早速必要な機材をガッシャガッシャ持って彼の滞在するホテルの一室へ。
恐らくバンドの仕込みか彼のライフワークに関する実験か何かだろうと思って向かったが、部屋から聴こえるのはボーカロイドの声…?
へぇ、まさかプノンペンで使うのかな?くらいに思って、質問したら違う。と云う。
じゃぁ何か別のプロジェクトかと訊くとどうも口籠ったあと、メンバーを訊ねると、オケと合唱団と…トミタイサオ…?え?冨田さん?どういう事?
てな事で、さしあたって云われるがままにごそごそやってるうちに、いつの間にかお手伝いする事に。
そしていつの間にか本番のステージにも出る事に。
そして更にツアーにも参加する事に。
そして更に海外にも遠征する事に。(※あれ?もしかしたら5年前の今頃ちょうど北京に居た頃か?)
そして更に次回作にも参加する事に…。
思えば色々大変ではありましたが、記憶を辿れば色々楽しい事ばかり。短期間ではありましたが非常に濃い、とても長く感じるくらい皆さんにはお世話になりました。
冨田さんとの会話や、このくらいの時間によく交わしていたメールも楽しかったなぁ。
ってアルバムの内容と全く関係なかった…。(汗
そう、僕も幼少の頃から宮沢作品は好きだったので是非観たいと思っていたんだけど、結果的には映像で観る事に。(笑
マスタリングもお邪魔して、とても思い出深いアルバムです。
奇しくもツアーの最初が花巻。最後に冨田さんとご一緒したのが盛岡。まさにイーハトーヴ。
とてもいい作品なので、また再演あるといいなぁ。
これにて #レコードバトン ひとまず完。
何方に回すか、または回さないか、番外編などなど、また改めて考えます。
有り難うございました。
m(__)m

日○病院(以下略)から出回っていると言うメールはご存知の方も多いと思いますが、後半にあるような予防対策に関しては同意。
なので、デマだのチェーンメールだのという触込みだけど害ではないので守るべきでしょうね。
ただ、直接病院への問い合わせは、迷惑になるので実名を出した呼びかけには注意すべきだと思います。
という事を踏まえつつ、既知の情報もあるかも知れませんが僕も頂いたメールで恐縮ではありますが、実名を伏せつつ情報をば。ご参考までに。

★(略)ほとんどの感染患者さんは食事中に感染しているようです。(遺伝子制御専門の)先生がご自身でまとめられた感染防御マニュアルをイントラネットで公開されました。
以下 注意事項↓↓↓
ウイルスが出てくるのは咳とか唾とか呼気。 でも普通の呼気ではうつりません。 
これまでのほとんどの感染は、①感染者から咳やクシャミで散った飛沫を直接吸い込む、②飛沫が目に入る、③手指についたウイルスを食事と一緒に嚥下してしまう という3つの経路で起こっています。感染にはウイルス粒子数として100万個ほど必要です。一回のくしゃみや咳や大声の会話で約200万個が飛び散ると考えられています。つまり感染者がマスクをしているとかなり防ぐことができます。なるべく鼻で息を吸いましょう。口呼吸で思い切りウイルスを肺の奥に吸い込むのはダメです。外出中は手で目を触らない、鼻を手でさわらない(鼻くそをほじるのはNG)、唇触るのもだめ、口に入れるのは論外。 意外と難しいが、気にしていれば大丈夫です。人と集まって話をする時は、マスク着用。 食事は対面で食べない、話さない。食事に集中しましょう。会話は食事後にマスクして。家に帰ったら、速攻手を洗う。アルコールあるなら、玄関ですぐに吹きかけて、ドアノブを拭きましょう。咽頭からウイルスがなくなっても、便からはかなり長期間ウイルスが排出されるという報告があります。ノロウイルスの防御法と同じように対処を忘れずに。感染防御のルールを再度整理します。①マスクと眼鏡の着用②手指の洗浄と消毒③会食は対面ではせず、一人で食事を短時間で済ませる④外から帰宅時は先にシャワーを浴びてから食事陽性患者さんの多くは、手指から口に入るか、食事の時に飛沫感染しているようです。以上を守って元気でいましょう。 

★(米・某)大学の感染症教授による非常に有益な情報 
〇ウィルスは生物ではなく、何層もの脂質(脂肪)でできた保護膜に覆われたにたんぱく質分子(DNA)です。このウィルスが眼・鼻または口の粘膜の細胞に付着すると、突然遺伝コードが変異し倍々方式で増え侵略します。 
〇ウィルスは生物ではなく蛋白質分子であるため殺すことはできませんが、自然に崩壊(減衰)します。ウィルスが崩壊する時間は温度、湿度、どこ(何)に付着したかにより違います。 
〇本来ウィルスはとても壊れやすいのですが、脂質でできた何層もの膜に覆われていることが問題で、この脂質の保護膜を取り除く必要がでてきます。脂質の保護膜を破壊することができる石けんや洗浄剤は有効(泡立ててこすり破壊)な訳です。破壊するためには石けんをたっぷりと泡立てて20秒以上こする必要があります。保護膜を破壊することによりウィルスたんぱく質は自然に減衰し崩壊していきます。 
〇熱は脂質を溶かします・・・25度以上の水で手や衣服、その他を洗うことが有効な理由となります。さらに暖かい水は泡がより泡立つため、より有効となります。 
〇アルコールとアルコールを65%以上含むものは脂質を分解します・・・特にウィルスの外側のたんぱく質の層を分解します。 
〇漂白剤(塩素)1対水5の割合でプロテイン(たんぱく質)を破壊します・・・ウィルスの内側から崩壊させます。 
〇過酸化水素水は石けん、アルコール、塩素の効果を長持ちさせます・・・過酸化水素はウィルスたんぱく質を破壊します。しかし、純過酸化水素水を使用する必要があり、皮膚を傷つける可能性があることに注意が必要です。 
〇殺菌剤、抗生物質は役に立ちません・・・ウィルスはバクテリアなどの生物ではないので抗生物質で殺すことはできません。 〇服やシーツ、布などを振ってはいけません(使用、未使用にかかわらず)・・・表面に張り付いた状態では不活性なので勝手に時間がたてば分解するからです。しかし、これを振ったりハタキを使用すると、最大3時間空気中にウィルスが浮遊し鼻などに付着してしまいます。― 3時間 (生地)― 4時間 (銅と木)― 24時間 (段ボール)― 42時間 (金属)― 72時間 (プラスチック) 
〇ウィルスは冷たい空気、寒い空間や家や車などエアコンがある場所では安定した状態で残存します。また、湿気と暗さはウィルスの残存を促します。したがって逆に乾燥した暖かい、明るい環境は勢いを墜落させます。 
〇紫外線ライトや光線はウィルス蛋白質を破壊します。たとえば使用済みのマスクの殺菌には紫外線ライト(UVlight)を使用すると完璧です。但し、肌のコラーゲン(これもプロテイン)も破壊するので注意して下さい。 
〇ウィルスは健康な肌を通り抜けることはできません。 
〇酢(酢酸)は脂質の保護膜を破壊できないので有効ではありません。 
〇スピリッツ、ウォッカも役に立ちません。強いウォッカでもアルコール度数は40%です。ウィルスを破壊するには65%以上のアルコール度数が必要です。 
〇アルコール65%以上のリステリンは役立ちます。 
〇より狭く限られたスペースではウィルスも集中しているかもしれません。広い場所で換気がよければウィルスも少なくなります。 
〇粘膜を触ったり、食べ物、鍵、ドアノブ、スイッチ、リモコン、携帯電話、時計、パソコン、机、テレビ、トイレなどを触る前にも、触った後にも手を洗わなければなりません。 〇頻繁に手を洗うことになるので手の保湿をして下さい。乾燥により生じる肌の小さなひび割れにウィルスが隠れ潜む可能性がありますから、厚めにハンドクリームを塗るのがお薦めです。 
〇爪の中にウィルスが隠れるのを防ぐために、爪も短くしておきましょう。 以上

実家では暇を見て母親が古い写真の整理をしているといい、先日の帰省の際にも居間にあった小さなアルバムを数冊ぱらぱらとみる。
そこには今ではもう盆正月ですら会うか会わないかくらいの親戚や、既に会えなくなってしまった親戚の楽しそうな笑顔が集う従兄姉の結婚式や、親戚同士で行った旅行などの写真があった。
僕が帰省もままならなかった頃の、家族との写真であった。

よく自分のSNSのページでも取り上げているが、あの当時の記録や動画などを見ていると、ふと胸を締め付けられるような気持になることがある。
その時代時代の懐かしさと、当時の思い出などが蘇るからというのもあるのかも知れないが、特に、僕がこちらに来てから位の大阪の番組やコマーシャルなどの映像を見ていると、僕が居なくなった後の家族もこれを見ていたのかなぁとか色々な思いが出てきてしまう。

勿論、そのころ僕は、単純に帰省できないもどかしさもあったけど、日々卓やパソコンに向かい、日々いろんな人と出会い、日々壁にぶち当たりながらも日々新しいことに挑戦して、それなりに充実もしていたので、後悔…っていう感じではないんだけれど、何というか、家族の思いやらなんやら、当時の主のいなくなった自分の部屋とか、ようやく話が合い始めた親父の気持ちとか急に息子が出て行った母親の気持ちとか、家の様子なぞに思いを馳せ、もう戻らない時間について時折モヤモヤと考えることの多いそんな徒然な50であります。
ま、タイトルにあるように単なるおセンチであります。

  人と契らば 薄く契りて 末遂げよ
           紅葉をば見よ 濃きは散るもの


  人と契らば 濃く契れ 
           薄き紅葉も 散れば散るもの


ロック界の寅さんのような、そんなギターのアニキは、まさしく出会った人出会った人と濃く契ってた人だと思います。
個人的な事や細かい事を言えば色々やり残した事もあるだろうけど、多分…後悔は無い人だったんだろうなと思ってます。
トラブルや悩み事も、後腐れ無いようにいち早く解決に努力してたし、改善や改良も、惜しみなく時間を費やして、間違いなく成功に導いて、周りを巻き込んで皆が笑顔で居られる環境づくりを常に心掛けていたな。
いや、心掛けてたって言うより、自身もそれを楽しんだり、次への糧にしてたという感じだった。
だから、常に、あんないい笑顔で、あんな旨そうに酒を呑めたんだろうな。

あの笑顔に、献杯。


まだまだ色々思う事があるし、アニキへの喪失感は莫大だけれど、少しずつでも自分の気持ちの置き場所を探して、また立ち上がらないとね。
馬鹿みたいなやり取りは、直接出来なくなっちゃったので味気ないこの時間帯…。だけど、気持ちは共有出来てんじゃないかな。と勝手に思ってます。
皆の事見守ってあげてね。

また徒然に思いついたら書こうと思います。

作業に戻ろう。っと。

2019030803520000e

結局あのイベントが最後になってしまったな。
ほんと有り難うございました。
感謝しかないです。

とにかく今日の日は、大きな虹の橋を駆け上っていった、BERATREK号の大いなる旅路への門出を、無事を祈りつつ見送ってきました。


後日落ち着いた頃、多分、徒然に追記すると思います。


Live long and prosper
親愛なるギターのアニキへ。

2019.03.11

先日20日、仲のいいバンド仲間の勧めで開かれた、50歳を祝(ってもら)うイベントがありました。
ド平日だというのに沢山のお客さんに足を運んでいただいて本当に有難かったです。

また、音楽仲間だけでなく、仕事関係の方たちや、僕が東京で仕事しだした頃からの懐かしい面々も多数いらしてて、何とも喩え難い、自分のこれまでの活動を振り返るいい機会にもなりました。

さて、僕の名前。「政幸」ですが、自分で書くのも発音するのも若干照れくささがあります。
なぜかって、恐らく名字のインパクトもあってか、単に呼び易いのか、「モモ」「モモチャン」と呼ばれる事が殆どだからです。
下の名前を発音される機会って、せいぜい家族か親戚くらいなので、何かの拍子に呼ばれると、ふと素に戻ってしまいます。(笑

名前の由来については、子供が生まれた時に、今はなき親父に名前をつけたときの心境や判断基準についてメールでやり取りした事があって、その時に僕の名前はどうやってつけたのか、生まれて初めて訊きました。
親父曰く、非常に自分勝手な解釈だが、という前置きがあって、
政=まつりごと、国を治める、ととのえるなど。
幸=しあわせを意味する。
から、周りの事柄や人々をしあわせに治める→即ちすべてをハッピーに出来る人になってくれれば。との想いから付けたという事だった。

どちらかというと、小さい時から不器用でインドア気味、家の中で絵を書いたり何かを組み立てたり作ったりする事が好きな引っ込み思案で常に人の顔色をみて行動し、とても活発という言葉からは縁遠い子供だったと記憶しているので、親父もきっと「こいつ大丈夫か?」と思ったに違いない。
実際、相当期待はずれな奴だったと思います。
そういう意味では小さい頃は結構厳しくされたかな。

でも今考えると、宿題やってないといえば会社を休んで一日付き合って一緒にやってくれたり、休みといえば友達も連れてどこか近場の遊ぶ場所に行ってくれたり、あからさまに可愛がられた記憶はないけど子煩悩な親父だったんだなと今になって思います。

話は戻って、そんな幼少期から何故こんな人前に名前晒すような事になってるのか…。
思い起こせば、多分目立ちたがり屋ではあったんだと思うんだけど、人前で披露出来る何も持ってなかったから自信がなかっただけなのかな?とも思います。
それは当時担任だった先生の勧めで、氏が顧問を務めるブラスバンド部への参加や、自分の描いた絵が評価されだしてから少しずつ自分の中でも変化が出て来たのかなと思います。

そこにきて、音楽好きの両親、新し物好きの姉や新しい情報元の従姉などの影響もあって、音楽への興味も高まった頃に出会った電子音楽とシンセサイザー。
ここからドハマリ人生が始まったといっても過言ではないでしょう。
そしてタイミングよく、親のマイホーム購入のため引っ越した先の学校では、残念ながらブラスバンド部はなかったものの、どういうわけだかシンセサイザー好きの友達が、今思うと何故あんなに集まってたのか不思議な程で、先輩と打ち込みバンドをやってる子も居て、のちにそのバンドのお古を譲ってもらう事になるのですが、その第一号が、今もなおスタジオに鎮座しているMS-20。

ここから音作りへの興味がどんどん湧いてきて、数々の実験を試すのには好都合の機種であったと今振り返ってもあれは偶然じゃなかったのかなと思います。
恐らく他のシンセであればここまではまっていなかったかも知れない。
説明書も、それぞれのセクションがどういう役割をするのかという説明と、少しのセッティングチャートがあるのみ。後は自分で考えろってのがきっと良かったんだろうな。
でもそれがきっかけで、シンセ好きの友達が何か新しい機材を買えばその子のうちに集まって夜遅くまであーでもないこーでもないと弄り倒し、プリセット出来る機種が増えてくれば、新しい機種を買った友達が弄ってみてくれと次から次へとうちに持ってやってくる。
軍隊学校と地元では言われてた中学での文化祭では今考えると相当プリミティヴな演奏だったに違いないのに、初めて聴くであろうシンセサイザーの音に、鬼のような先生たちが感激してくれた。

高校時分などはバンドブームのはしりでもあったので、バンドやってる友達があの音をコピーしてくれとかあの曲のフレーズはどうなってるのかと相談に来たり、いわゆる今やってる事の原型ともいえる環境が既にそこにあった。
お陰で耳コピも、あらかたのメーカーの機材の特徴なども早いうちから習得することが出来、どんな機材も物怖じする事無く触れるようになっていた。
噂を聞きつけた演劇の顧問の先生から効果音作りの依頼をされたり、先輩からファッションショーで使うBGMの製作を依頼されたり、プログレ、ニューウェイヴ好きの音楽の先生と妙に打ち解けたり、英語は苦手だったが、シンセをきっかけに担当の先生と仲良くしてもらったり。きっと僕はかなり得意げになっていた事だろう。

そして専門学校。あの音響芸術学科の入り口に入って以来、各業界のつわものを結集させたような講師陣の、見習うべきお手本が沢山の環境で刺激を受け続けながら来られた事も僕にとっての幸運でした。
時代はバブルだといえど、モノづくりの人達には通常の5倍から10倍働かされた人が殆どだと思いますが、そんな環境下で、バイト時代から先鋭の作曲家やアレンジャー諸氏に鍛えられたのも幸運です。
その後の音楽制作スタジオへの就職も、東京への進出も、仲間との出会いも、すべてにおいて、「シンセやってます」の一言から繋がった関係ばかりで、不器用ながらも嘘のない繋がりから生まれた関係だけに本当に長い付き合いが多いなと思います。

つまり、何を言いたいかというと、これだけ振り返ってみても、昔から環境や人にはすごく恵まれていて、いまだに何の芸が出来るわけでもない、満足に一人前の生活もままならないというのに、ただただシンセいじり続けてきたというだけで、ラッキーな事に時代時代の時の人たちや伝説級の人、巨匠と呼ばれる人など大御所や数々の尖った人たちや大きな仕事する機会に恵まれて来たという事実も、ひとえに周囲の人のお陰以外の何ものでもない。

それに、僕ごときのために、一声かかると二つ返事で引き受けてくれる友達や恩師、先輩、後輩たちが何物にも代え難い僕の財産なんだと思います。
万年ド貧乏でも常に前向きに居られたのは、ほんとそういった環境のお陰だと思ってます。
また、それを文句ひとつ言わずに見守り、支え続けてくれた実家、家族にも感謝しています。

その20日に行われたイベント自体も、ビデオレターの数々も、30年来の知り合いとの邂逅もどんなプレゼントよりも嬉しいサプライズでした。

声掛けしてくれた稲葉君も大変だったろうと思いますが、皆忙しいのにわざわざ有難い言葉を下さってなんと言っていいのやら。
本当に有難いことだとこの歳になってしみじみ思います。

さて、親父の願った人物に近づけているのか…。それは解らないけれど、逆に人の役に少しでも立つことで、その人が喜んでくれるならこんなに嬉しい事はありません。
つまり周りをしあわせに以前に僕が幸せを貰っているという申し訳なさ。(苦笑
親父、すまん。(笑

しかし、そういった、人様の役に立つためには常に腕を磨いていないといけない事も事実です。
だからといってそれは苦労ではなく、自分自身もアンテナを鋭く磨き続けている事で、新たに得るものもあり、それは互いにフィードバックしながら増幅したり変形したりしてバリエーションを増やしつつ、自分の引き出しとなってそれがまた何かの役に立つ事が出来るように丹念に磨く。この繰り返しだと思っています。
きっとこの作業には終わりはないでしょう。
これらの事を日々忘れないためにも精進は続きます。
あと半世紀までも、バリバリのハイパージジイ目指して、よき先輩、よき同輩、よき後輩に囲まれ、刺激を受けながら頑張る所存ですので、どうかひとつ、今後とも宜しくお願いいたします。



平成30年 11月

百々政幸

って程じゃないけど、先月末いっぱいで、この数年悶々とし続けてきた思いに終止符を打ちました。

思えば約30年前、現場最年少組と言われた頃に業界での立場も曖昧だった、シンセサイザープログラマーという稼業を、当時、いわゆる打ち込み黎明期から音楽業界を支えてきた方達が、この曖昧な立場も含め公的に演奏家として認めてもらうべく立ち上がったその団体の意図に賛同し、タイミングよく別件で仕事場にいらした会長直々に入会を認められてはや幾年月…。
とうの昔に既に当初の目的を果たしてしまったあと社会的に認められる職業となったはいいが、団体の奨める啓蒙という名の下に今では打ち込みなんて当たり前になってしまった環境の中、今度は逆に、プロとしてのこの専門技術である稼業の立場が曖昧になってしまい、数多くの名の知れたプログラマー御歴々方も、業務拡張や職種換えを余儀なくされ、或いは稼業そのものをお辞めになった方もいらっしゃいます。
これは日本の音楽文化を考えた場合に、相当な痛手であるにもかかわらず、相変わらず量産される音の渦の中に埋もれて、まるで無かったかのような事になりつつあります。
もちろんそういった背景から優れたクリエイターが出現しているという事実もあります。
そういう意味では刺激になりますが、個人的にはそれで日本の音楽業界自体の底上げになっているとは考えにくく、一部の天才肌や職人気質のクリエイターを除いての大多数は、安価で環境が整えることが出来、機材の性能に頼った惰性とネットなどで得たワンポイント知識で成り立つ便利なツールに伴う価格破壊競争の種である事は否めないと思っています。
天才や職人と鎬を削るならともかく、果てしなく安価でフラットな耳中りだけがいいとされる量産消費音楽と日々クオリティ以外のところで勝負して、音楽向上とはこれ如何に。
そんな事の為に人生を賭して来たのだろうか…。
果たしてこれは本来我々が望んだ未来だっただろうか…。

それでも幾多の苦難を乗り越えて絶滅危惧職となっってしまった今も、この職種に限らず同じようにこの業界で苦難を乗り越えてきた一部の”音”にこだわる方々のおかげで、首の皮一枚で何とか生き残ってますが、ある時から思うところあり、色々考えては見たのですが、現在における団体の方向性からは、もはや自分の立ち位置は「無い」と判断し、ようやく踏ん切りがつき、離れることにしました。
これまで相談に乗ってくださった方々、お世話になった方々、有難うございました。

もちろん稼業自体は絶賛続行中ですので、これまで通りご依頼お待ちしております!!
個人でも、(有)プレストーン経由でも承っております。
今後とも、引き続き宜しくお願いいたします。
m(__)m