前回は→その①

 

 土偶の話から日本文化が東から始まった話をして参りましたが、実際に土地の調査などからもそれは認識されている事です。実際に住んでいる人間は旧石器時代からです。それは石器が見つかったりしているからです。

~旧石器時代から富士山の周りには人が居ます~

国土交通省の文章を引用参照まとめ

 ウルム氷期(約7万年前~約1万年前)と呼ばれる、最後の氷河期がありました、この時期は旧石器時代から縄文時代にまで入り込んでいます。その一番寒かった時期は1万8千年ほど前で、気温は今より7~8度低く、海面も100m下がり、日本列島は大陸と陸続きであったとされています。こうした厳しい自然環境にもかかわらず愛鷹山麓、箱根山麓を含む富士山周辺では、旧石器時代から人々が住み、広域にわたって活動していたことが知られています。愛鷹山麓からは後期旧石器時代(35,000~10,000年前)、およそ2万9千年前のものと見られる石器が見つかっています。
 富士山周辺の旧石器時代の人々は、ある時には噴煙を上げる富士を眺め、またある時には噴火の猛威にさらされながら、厳しい寒さの中を少人数で助け合い、移動をつづけながら、狩りと木の実や植物の根などの採集により生活していたと思われます。遺跡から発見される石器の中の黒曜石は、長野県の霧ヶ峰や和田峠で採取されるもので、当時の交流・交易の広さを示します。やがて長い氷河期も終わりに近づき、1万4千年ほど前からは氷が溶けて海面が上昇し始め、現在の日本列島の形がほぼ残されました。活動を続けてきた古富士火山も、その噴出物で高さおよそ2,700mにまで成長しました。

~以上~

 

【日本は太陽とピラミッドの有る古代文明国家である!】

 この時代から富士山の周りに人がウロウロしていたし、交易していたとかも驚きですが、では今でいうような文化・文明が日本に出来た時はいつだと思いますか?そう!それが縄文時代なのです!上記の様にウロウロしていた人間達が定住し住処を作り、土器などを作ったりピラミッドを作ったりしているわけですから当時を見る事が出来たら広々した大地に強大な祭祀場があるスケールの大きな光景が広がっていたはずです!

万一今でも誰かさんの系統が破壊しちゃった太陽石を直ちに補修し、そして黒又山のピラミッドを土を取り払い、大湯川遺跡とセットで保全したら世界に名だたる観光地となるでしょう!それをやらないのは、ばれちゃうと困る人が居るからだよね(大爆笑)自分たちの陵墓は立派にしてお参りとかTV中継やるくせにね。誰とは言わないけどさW

 

約11,000年前の縄文時代草創期(そうそうき)国土交通省から引用

平成13年春、「日本最古の定住集落跡発見される」のニュースが新聞・テレビ等で大きく報道され全国の注目を集めました。場所は富士山西麓の富士郡芝川町大鹿窪、県営中山間地域総合整備事業柚野の里地区圃(ほ)場整備事業に先立つ埋蔵文化財発掘調査(H.13.11~H14.3)によるものでした。調査によると、遺跡は、今から約11,000年前の縄文時代草創期(そうそうき)のもので、当時の人々の生活の跡が大変よく残されていました。

~引用以上~

 

 この大鹿遺跡の話は夏至の太陽が見られる場所として以前紹介しました。その後モンスーンとかで見えにくくなり、幅広く観測できる場所として千居遺跡にとってかわったと専門家は書いていました。

【大鹿遺跡のあらまし国土交通省から引用
 集落には縄文草創期以前の噴火による溶岩が堆積していて、この地形を風よけに利用するように住居跡と考えられる竪穴状遺構(たてあなじょういこう)が馬蹄形(ばていけい)に並びます。また、石を集めて料理をした跡と思われる集石遺構(しゅうせきいこう)、お祭りをした跡と思われる配石遺構(はいせきいこう)等が発見されています。
 同時に、当時の人々が使った生活用具も多数発見されました。物の煮炊きに利用した土器、この土器には押圧縄文
(おうあつじょうもん)と呼ばれる縄でつけた文様があります。石で作った道具には、動物を狩猟するときに使った、槍の先につけて使う尖頭器(せんとうき)、弓矢の先につけた石鏃(せきぞく=やじり)が見つかっています。この他に、木の実や動物の肉をすりつぶすときに使ったと思われる石皿(いしさら)や磨石(すりいし)も多く出土しました。
 これらの道具は移動する生活には重く、持ち運びに不便であることから、ある期間定住したと考えられています。今まで、こうした形の集落跡は7,000年前頃になって生まれたと考えられていましたので、新しい発見に大きな話題を呼んだのです。


 縄文時代は、草創期から始まって、大きく6時代に区分される、約1万年に及ぶ長い時代です。旧石器時代も縄文時代も共に狩猟採集の時代ですが、縄文時代になると次第に大型化する集落跡や墓地の存在、また持ち運びに適さない土器や石皿等が出現します。これは、人々が定住型の生活を始めたことによると思われます。


 大鹿窪遺跡の人々は噴火におびえながらも、この土地の豊かな食料や清冽な湧水に惹かれ、移り住んだものと思われます。複雑な凹凸のある溶岩の地形は、住居や焚き火の風よけになったり、また、動物を待ち伏せしたり、狭い迷路に追い込んだりするのに役立ったことでしょう。また、気孔の多い溶岩はドングリなどの木の実をすりつぶすのに適しています。このように、人々は広大な富士山麓で、その環境の厳しさと恵みをうまく生かし、日々の生活を送っていたと考えられます。
 お祭りをした跡と思われる配石遺構では、現在の私たちのように毎日富士山を眺め、いつまでも恵み豊かな富士山であることを祈っていたのかもしれません。

~以上~
 

 この様に富士山の周りに最初に主に住み着いていたのですが、記録によると富士山の噴火の状態が酷くなり住めない時がやってきます、そして八ヶ岳方面とか長野の方に流れてきているので、かなりの巨大な文明圏が有るのです。上記の次第に大型化する集落跡や墓地の存在とはまさにここの事でしょう。※現時点ではの話になりますが

実は日本で最大の祭祀場が埋められていて見えない事を皆様ご存じでしょうか?

 

阿久遺跡

④の阿久遺跡

ウィキより引用

長野県,原村にある縄文時代前期の祭場を含む集落跡。 1976~78年に中央自動車道建設に伴う事前調査として調査された。大規模な祭場をもつ,まれな遺跡とわかり,保存運動が起ったが,遺跡は道路の下に埋めて残す方法がとられた。遺構は7期に分けられ,初めは馬蹄形に住居が並ぶ集落から,やがて膨大な数の土坑,集石,立石からなる祭場が中心になっていく。大規模な祭場の様子は,従来の縄文時代前期の社会についての考えを一変させるものとなった。
出土品は遺跡に隣接する原村埋蔵文化財収蔵庫に保管されており、基本的に公開はしていないが希望者には見学の便宜が図られている。その他、八ヶ岳美術館にも一部保管されており、こちらの方は一般公開されている。
~以上~

博物館には再現してある部分が少しだけ有ります。

それは・・・・縄文時代というのは祭祀が生活の中に取り込まれており、その規模というのが目を見張るものだったからです。

これがその世界を再現された模型ですが。列石が家の隣に有るのが見えますよね?つまり縄文時代というのは「祈りが日常だった」と言えましょう(-人-)

 

 しかし、上記に書かれているように基本的になぜか出土品は公開されていません。我々一般人が見られるのは八ヶ岳美術館です。

どうしても見たい場合は、「原村埋蔵文化財収蔵庫に保管されており、基本的に公開はしていないが希望者には見学の便宜が図られている」そうなので。交渉してみてはいかがでしょうか?

 しかしです、こでも私は奇妙さを感じます。日本で最大の祭祀場所が埋められているという事実もそうですが、これらの資料を何故もっと宣伝しないか?という事実です。

みなさん以下の事実を知っていました?

●ここの祭祀場所が縄文時代の日本最大でしかも一番巨大という凄い祭祀場所が土に埋め戻された事実

~以上~

 

  この祭祀場は阿久尾根の最も幅が広くなる場所を選んで作られていた。

※写真上図地図を参照になさってみてください

その構造は広場の中央部に設けられた中心施設としての立石・列石遺構と、それをドーナツ状に二重に取り巻く遺構からなる。いわば核と内帯・外帯部分の遺構からなるものである。

内帯はいくつかの方形柱列を取り込んだ土坑群からなる。外帯は環状集石群からなり、内帯と接する部分は部分的に重複する。更に環状集石群の南から東側は居住地帯となり、祭祀場の一部分を囲む。

このように、阿久遺跡は祭祀場と居住地帯

さらにこれらを取り囲む、人々の生産の場としての自然からなる。

これらの一大文明は少なくとも5000年前には確立されたていたのです。

 

祈りという事で私は、土器からとある事を感じたのですが・・・・

 

【困るものは見せない方針】

 件名のまんまです。輩の利権という立場になって考えてみると答えは簡単です阿久遺跡が有る事自体、困りますよね?社会は輩達のグループにより形成されているため、大どんでん返しの証拠など庶民の目には晒さないという予測が成り立つ訳です。

そしたら、やっぱりというか有りましたね(笑)保全したら大川湯遺跡を超すような祭祀場です。

 私は阿久遺跡のような貴重な場所にあったものこそ、人の目に触れ日本という文化を感じればもっとみんなも自国に興味を持ち愛国心が産まれるはずです。

しかしです・・・・この件を調べたブロガーさん等が

「重要な作品は撮影禁止になっていたので」

という風になっています。確かにフラッシュ等で絵画が痛むとかの理由は有るかもしれませんが、だがしかし、公式HP等には、一度だけどうにか撮影した物を目録として載せてもおかしくないですよね?

現に有名な画家のでもそうしていますよね?

それなのにこういうものだけ?って違和感を感じませんでしょうか?これは中東の遺跡と同じですね。あと鎌倉時代の(日蓮の頃)の仏教美術は沢山某外国の美術館にあります。卑弥呼の鏡も同じくです。そして見せて貰えないんですW日本のものなのに。日本の美術館も一緒です。某有名美術館にはしまいこんで見せない曼荼羅が有り(鎌倉時代)、HP上でも画像をそこだけ載せていませんし、せめて文章だけでもと思いますがそれすらもないって知っていましたか?

 

しかし、どうしてか?類似する遺跡の土偶を見ると私は答えがはっきりわかります。

これを見てください。

①「巳を載く神子」(へびをいただくみこ)。藤内(とうない)遺跡井戸尻(いどじり)考古館の絵はがきから。縄文時代中期。

これってどういう状況で出土したか?これです。巫女だから羽をつけていたのかもね。インディアンもフクロウとかの羽には魔力が有ると言っています。

後頭部の上には何が有りますか?

【意識をニュートラルにして感性で読んでみてください】

縄文といえばセオリツ・・・・巫女・・・・セオリツって誰の事を指すの?

七面山の道に差し出されたように落ちていた羽・・本能的に拾い我が家の兎の居る神棚へ

 ここはどうみても卑弥呼の縄張りだと思いますが、安曇族が来ている記録もありますし(卑弥呼は海人です)八万神を塗り替えてきた輩の利権団体のやる事から考えてもわかります。書き換えは歴然たる事実なので、スピチュアリストの言っていることを見ると、向こうの回し者か偽物の霊能者だと思いますね。

 

詳細を見るとこの遺跡群て非常に利権者達にとって不都合だと言う事がわかります。

だって神武から始めたいのに、それが全て覆されて、女王の国だという事がバレてしまうからね

日本の古い樹木の信仰と言えば、ミシャグチ様が居ます。ここには古代文字が書かれているのです。地元の歴史家の話によると、モリヤがどうのとか全くそんな話はなかったという風に主張している人も在有る様でが、それもそのはずです。理由は私がこらから書く事を読み進めると分かってきます。

 

私がミツバチに導いてもらった岩。羽ばたいて止まった先には文字が有りました。当時岩に文字が書いてある事は一般に言われていませんでしたので私はいち早く発見できていた事になります。私というよりミツバチ君の手柄ですけど(笑)

※つまりペトログリフがここに有ります。文字がないと勝手に誰かさんの系列が言った話を前に書きましたが、実際には有るんで、こんな風に誤魔化しているんですね。モリヤ山とかキリスト教名に似た名前をかぶせて。

この岩はモリヤどうとか関係なく、もっとここに古くからあるミシャグチ様信仰の山であったろうとごく最近になって歴史研究グループがレポートを出している訳です。何故なら当時の文字だからって事でしょう。このミシャグチというものは何か?という事を以下で解説していきたいと思います。

 

『ミシャグチ信仰とは何か?』

皆様一度は耳にした事が有るかもしれませんが柳田 國男(やなぎた くにお、1875年〈明治8年〉7月31日 - 1962年〈昭和37年〉8月8日)という方がいらっしゃいます

※日本の民俗学者・官僚。終戦後から廃止になるまで最後の枢密顧問官などを務めた。1949年日本学士院会員、1951年文化勲章受章。1962年勲一等旭日大綬章(没時陞叙)。

「日本人とは何か」という問いの答えを求め、日本列島各地や当時の日本領の外地を調査旅行した。沢山書物は書きましたが、中でも有名なのは『遠野物語』でしょう。岩手県遠野地方に伝わる逸話、伝承などを記した説話集です。

 

日本民俗学の開拓者であり、多数の著作は今日まで重版され続ています。

 

【ミシャグチ様って何?】柳田國男の石問答「石神問答」より

 それでは、ミシャグチ様って何?って書いて行きますと。柳田國男の書いた「石神問答」は、柳田国男が数人の民俗研究者との間で交わした往復書簡を一冊の本にまとめたものだ。それらの書簡は合わせて三十四にのぼり、交わした相手は、山中笑はじめ八名である。これらの本は明治四十三年に出版されました。

 その書物によると、ミシャグジは大和民族に対する先住民によって祀られていた塞の神(境界の神)で、大和民族と先住民がそれぞれの居住地に立てた一種の標識であるとも考察したと言っているのです。

 

大和民族と言えば大和朝廷による古代国家の基礎が整えられた時期にあたる。日本書紀、古事記ではまず初代神武天皇による建国経緯が語られる。時代で景行天皇と日本武尊による九州や関東への遠征

 

【日本の土着民に武力を行使した日本武尊】上記のキーワード解説

大和朝廷は全国を治めていく過程で各地で抵抗する”まつろわぬ者たち”を制圧(国の平定)する必要がありました。そこで、天皇の皇子として生まれた日本武尊が将軍として派遣されました。『日本書紀』や『古事記』には日本武尊による西征・東征の話などが載っています。

~以上~

 

【柳田國男の石問答「石神問答」より】

荒神・山神・地ノ神・道祖神は、西大和朝廷による古代国家の基礎が整えられた時期にあたる。日本書紀、古事記ではまず初代神武天皇による建国経緯が語られる。部の諸県にもあるが、伊勢から紀州の一部を止まりにして東にしかないのは社宮司

 

 

しゃぐじという神である。これについて二十年余りも前に、私は小さな本を一冊書いている。それから後に判ったことは、信州の諏訪が根源で、今は衰えてしまった土地の神の信仰ではないかということである。

 

柳田國男は、日本にみられる各種の石神についての山中笑らとの書簡のやりとりを『石神問答[して1910年に出していた。神体が石ということからミシャグジを石神とする山中に対し、柳田は石を祀らないミシャグジもあり、石を祀ってもミシャグジといわない例があると指摘し、検地に使われる間竿がその神体として祀られることもあるから、ミシャグジは土地丈量の神であると主張した。また。『石神問答』の再刊の序では、柳田は「是は木の神であった事が先ず明らかになり、もう此部分だけは決定したと言い得る」と宣言している

この柳田の説に対して大和岩雄(1990年)は、自説に不都合だからか、柳田が『諏訪旧蹟誌』を引用した際に「此は即石神也」という文を省いていたと指摘し、そもそも『旧蹟誌』の著者がミシャグジを石神としたのは境の神に石神が多いからと書いている。さらに大和は、ミシャグジが祀られる古樹の根元に祠があり、神体として石が納められているのが典型的なミシャグジのあり方であるという今井野菊の観察に基づいて、ミシャグジはやはり石にもかかわっており、木の神と決定するわけにはいかないという見解を述べている。石埜三千穂(2017年)も、柳田が民間信仰としての石神の調査の延長としてミシャグジを扱っており、中世諏訪信仰にちゃんと注目していなかったからこの結論に至ってしまったと批判している。

~以上~

つまり、どのみち太陽や石や木や山岳に対するアミュニズムが日本古来の土着の神という事には変わり有りません。

 

 

これは縄文遺跡の一種です。ウィキペディアより写真引用

 つまり、私が何が言いたいかというと、素直に考えれば、研究した人ほど大和朝廷が土着の日本人を追いやったという事が覆しがたいという事ですが、どうして現在でもそういう事が無かったようにするかというと権力側の者達が代々生き残り、そして現代も、無理くり隠すための理論をスピ本で展開しているという事なのでしょう。

大和朝廷より前ならどうみても縄文時代でしょうけど。その遺跡を見ればミシャグチ様の信仰だと分かると思います。例えばミシャグチ様の分布図

 

因みに縄文時代って今から一万年続いた文化なので、どう見ても神武などよりは歴史が長いのですが、どうしてそれだけ伝統の物を大切にしないで、太陽石やサークルストーンを破壊してしまうのでしょうか?知らなかった人はそこも考えて欲しいポイントでもあります。

ウィキペディアより参照

つまり和歌山より西側には存在しないという事。

次は縄文時代の人の分布図です

【太陽と巨木の扶桑国Japan日本】

あと上の記述からも分かるように、古樹の根本に祠があり、神体の石を置くという事実が有ります。根本・・・・そう根本・・・・ですよ皆様。これは日本の『本』という字に繋がっているじゃありませんか!

「本」という漢字は、「木の根本に印をつけたもの」がその成り立ちです。 そこから 「(木の)根本(ねもと) そこから、 様々なものの本(もと)・根本(こんぽん)」 を表すようになりました。 「根本」や「根元」という意味です。

そして太陽を現す日という漢字
 

日本は太陽と巨木の国だったという事は間違いないでしょう。そして巨石もね。

なんちゃら神様どうこうってより、自然霊に対する崇拝を表しているのが日本の元来の信仰という事になります。

 

私が万一縄文の女王だったら以下の様に言う事でしょう!

太陽は全ての命を育み

古木は力を与えてくれる

巨石は未来を占うもの

扶桑木は2000千メートルと山海経典にあるから、もし本当だったら富士山の三分の二の高さで実在したことになります。霊能者であったら相当パワーが貰える。今の比じゃないってのを私は感じるんですよね。