曲中に「ここぞ名に負ふ更科や、姨捨山に着きにけり」と言い、「これは此更科の里に住む女にて候」とある。

尊い神の説明にてこの書き方をしており、姥捨て山に現れたのは、更科の里に住むとうとい神。少なくとも女性と読み取れるのはまず間違いないだろうかと思う。そこでその神が何なのか?と考えると隠すのにどの名前を使用するか?を考えるとすぐに答えが分かった。

コノハナサクヤは浅間大神アマテラスの名前をすり替えるのに使われている。つまりこの岩の伝説ってアマテラスの盤座だって知っている者が、隠す?あるいは情報を握りつぶすためにやった事は前例から明らかだと思います。一番良い例は浅間神社です。

※秦氏はその実行部隊として神の名前のすり替えをやってきた立場なのだろうけど、今後話していく中で、迫害を避けてうまくすり抜けて名前を残している気概の有る僧侶が居た。それは日蓮です。

※この話は非常に面白いので後述しますので興味ある方は楽しみにしていてください。

だからか分からないけどおそらくそこの僧侶の方は心御柱に対して正しい情報を発信する事が出来ているのです。ネットで隈なく探しても正しく書いているのってこの宗派のお坊さんだけで有るのは非常に残念な事です。しかしそれほど古代神を気合を入れてつぶしてきてその効果が絶大であったことは認めましょう。

 

【では、女神の登場してきた更科の里や姥捨て山ってなんであるか?科学的に事実を書いていきますが】

※戸倉市の観光案内などからまとめています
長野県の戸倉町、上山田町、坂井村の境界線のあたりにある冠着山(1252メートル)は別名姨捨山とも言い、麓からはよく望見される。長野県千曲市を中心としたすそ野に広がる全域をさらしなの里」と呼び麓のあたりが更科の里で、縄文時代の遺跡が多くあることで知られ、「さらしなの里、古代体験パーク」が建設整備されている。ここには縄文時代から、この地におばすて伝説が発生したとみられる9世紀前葉の頃までの遺構や暮らしかたが復元展示されている。

>つまり縄文の里です

 

 

約4500年前縄文時代ムラ々に囲まれた土地であることから食べ物が豊富であり、日本の真ん中に位置する長野県は縄文時代、東西交流の集積地でした。信州千曲観光局。

 

【山の名前まで変えちゃう強引さをご覧ください】

こういう視点で書く人が居ないので(神主さんがやったら迫害されると思うので)私が代わりに書きます。

冠着山の呼称は「天照大神が隠れた天岩戸を手力男命が取り除き、九州の高天原から信州の戸隠に運ぶ途中、この地で一休みして冠を着け直した」と日本神話により伝えられている事による。

天岩戸を手力男命が取り除き→戸隠しでの例を見て下さい。アマテラス時代の九頭竜(ミシャグチ)の名前を消すのに手力男命を使用しています。

戸隠し神社と名乗るのは時代の流れからそうなっただけで有り前回までに書いたように本来は九頭竜神社と名乗るのが伝統を守る事ではなかったのか?と疑問を私は呈します。冠を付けなおしたとは悪い言い方すれば王権を奪った。マイルドな言い方をすれば王位を譲られたという意味にとれます。実際この神社勢力が大和王権だという事はだれでもわかる事でしょうけど。縄文勢力は、それに平定されるようになったことは色々な記述からも間違いない事でしょう。

 

そして千曲川って前にも話した通り【血が隈なく流れた】から千曲川だと川上村の村史に書いて有るのです。つまり神代の神武にやれたからそうなっているという事。九頭竜も首を切ったと自分らでちゃんと記紀に書いているのだから否定できないでしょう。

 

それを踏まえながら以下の文を読んでみて下さい。

 

 

文と写真・千曲市三島の大橋静雄さん、さらしなの里友の会だより15号=2006年秋=から

  冠着山の頂上に注連張石(しめはりいし、別名石尊大権現)という立石(たていし)がある。古来、霊石として冠着神社の祭典と一緒に奉祀されている。この立石と羽尾の幅田(はばた)遺跡から出土した縄文時代の遺構には密接なつながりがあると私は考えている。


 幅田遺跡は縄文時代中期の縄文人集落で、ここにも大きな立石がある。昭和三十八年(一九六三)の発掘で見つかった配石遺構の中にある高さ四十㌢、直径二十㌢ほどの棒状の自然石だ。
 配石遺構は一辺が二・四㍍の正確な正方形であり、全国でも珍しいとされるが、この遺構が冠着山の頂上にピタリと照準を合わせ、あの注連張石と対面している。
つまりこの配石遺構は冠着山と一体となっているのだ。
 立石は墓場にあることが多い。縄文人は立石を男根石に見立て、立石から死者の霊を送り、再び現世に生まれ帰ると信じていた。男性器に秘められた旺盛な生成力により、邪霊の侵入を防ぐとも考えた。各集落の入口によく見かける道祖神の原形とも考えられる。
 縄文まつりが行われるさらしなの里古代体験パークの脇を流れる雄沢川の源流近くには、縄文時代中期初頭の採集拠点であった楪葉遺跡がある。そう、幅田遺跡のご先祖様が来たと考えられるところだ。彼らは雄沢川沿いなどにトチ、ドングリの木を植え、実を水にさらして灰汁を抜く技術を伝え、安定した食料の確保ができるようになっていったのだ。
 長野市七二会地区に見事なトチの木(樹齢千三百年、周囲一二㍍)がある。縄文時代にもこんな巨木が、ニョキニョキ育ち、たくさんの実が採れたのではないだろうか。トチの花からは蜂が蜜をたくさん取り出す。トチ餅につけて食すると、たまらなくおいしい。
 幅田遺跡の立石のそばには、埋められた甕があった。幼くして亡くなった子どもを埋葬し、この立石より信仰の山であった冠着山の嶺より死者の国へ英霊を送り、また再生を願った。やがて新しい生命がやどり、その赤ん坊の胎盤を甕に埋めて埋設した。村人たちはこの甕を踏めば踏むほど、丈夫な子どもに育つと信じ、「男根石」に祈った。こうした精神性がやがて立石を厄除け、五穀豊穣、子孫繁栄の神とし、道祖神にもなったのだろう。
 ところで、この配石遺構の中央に炉があり、その周りからは使い古し破損した土器や石鏃、凹み石、石皿、打製石斧、動物の骨、人骨などおびただしい物が出土している。床面は真っ赤な焼土となっており、明らかに祭祀遺構である。冠着山の恵みで生活の糧になったものを赤々と立ち上る炎に投げ込み、再生を願い山の神に贈ったのではないだろうか。いまの「どんどん焼き」の原形か。
 縄文時代は幅田遺跡の近くを千曲川が流れていた。小魚だけでなく秋は鮭、マスが捕れた。記録によると、明治二十四年に信濃川全域で一〇五〇㌧の漁獲高があった。最近までこんなに捕れたのだから縄文時代は雄沢川にも大群が…。想像しただけでワクワク。

~以上~

 

つまり、冠着山などと名乗る様にはなったけど、その以前は岩がご神体であり。縄文の女神の祭祀が基本だったと誰が見ても気が付くのではないかしら?

 

私がこれだけ書いてもまだ分からない人たちがいるのは私は非常に不思議でならない。やはり文字列に対する読解力が落ちているのかもしくは【洗脳】ってものだと思います。

古代神を殺害し、勝手に祭祀場の情報を変えて刷り込む人達って本当に上品な家系って言えるんでしょうか?