裏神道の者達が投げかけてきているアークを動かすには「鎮魂」が必要という意味とは?

 

~プロローグ~

私は、基本あらゆる宗教に興味が無い為。見てはいても気がつかない事もある。けど時期が来たんだろうね(分かる時が時期だと思う)すっと分かる瞬間が降りてきた。

今までは一般人でしかなかった私が鎮魂なんて言われると、死者の霊を慰めるという意味しか知らなかった私は、何を言っているんだよW?誰か死んだのかW?位に思っていたけど、実際は違うかなと最近分かり始めました。

鎮魂という意味には二通り有り、死者の霊を慰めるという意味と、神道の用語で「御霊振り」という行事の事を示す意味が有るのです。

彼らが言っているのは後者の方だと段々分かってきました。

ずっと話してきた通り、私はお世辞は言えないので調べたままを話すと・・・・・。天皇家とは明治の国家神道で戦争をする為に国民の心を集結させるために天照を名乗った家系でしかない。人間宣言というより元々唯の人間である。貴族のトップというだけだろうね。

ただしかし・・・・その天照を名乗り行事として伝承を受け継いだせいで神道、特に裏神道の方に地球創世の足跡の秘密が行事として残っているのだと、調べると分かってきた。

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※まず資料として使用したのは、全部ウィキペディアからです

●資料その①

魂祭(ちんこんさい、みたましずめのまつり)とは、宮中で新嘗祭の前日に天皇の鎮魂を行う儀式である。宮中三殿に近い綾綺殿にて行われる。一般的ではないものの、宮中と同日に行われている石上神宮や、彌彦神社物部神社など、各地の神社でも行われる例もある(うち彌彦神社は年二回)。天皇に対して行う場合には「みたましずめ」「みたまふり」と言う。鎮魂祭はかつては旧暦11月の2度目のの日に行われていた[1](太陽暦導入後は11月22日)。この日は太陽の活力が最も弱くなる冬至の時期であり、太陽神アマテラスの子孫であるとされる天皇の魂の活力を高めるために行われた儀式と考えられる。また、新嘗祭(または大嘗祭)という重大な祭事に臨む天皇の霊を強化する祭でもある。第二次世界大戦以後は皇后皇太子夫妻に対しても行われている。

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まずは、上記の太陽暦導入後は11月22日)に注目して頂きたい

11と22って私は何と言ったでしょうか?そうです合わせ鏡の極意の話をしています。纏う数字には意味が有るから。つまりそういう意味が有るという事。

●資料その②

鎮魂の儀では、宇気槽(うきふね、うけふね)と呼ばれる箱を伏せ、その上に女官が乗ってで宇気槽の底を10回突く「宇気槽の儀」が行われる。これは日本神話岩戸隠れの場面において天鈿女命が槽に乗って踊ったという伝承に基づくとされている。『古語拾遺』に「凡(およ)そ鎮魂の儀は、天鈿女命の遺跡(あと)なり」とある。かつてこの儀は、天鈿女命の後裔である猿女君の女性が行っており、「猿女の鎮魂」とも呼ばれていた。鎮魂の儀の後、天皇の衣を左右に10回振る魂振の儀が行われる。これは饒速日命が天津神より下された十種の神宝を用いた呪法に由来するとされる。『先代旧事本紀』には、饒速日命の子の宇摩志麻治命十種の神宝を使って神武天皇の心身の安鎮を祈ったとの記述があり、「所謂(いはゆる)御鎮魂祭は此よりして始(おこ)れり」としている。

~以上~

 

、饒速日命の子の宇摩志麻治命が十種の神宝を使って神武天皇の心身の安鎮を祈ったとの記述があり、「所謂(いはゆる)御鎮魂祭は此よりして始(おこ)れり」としている。という部分に注目して欲しい。

ここで出てくる十種の神宝を分析するとアークに繋がってくる。

 

●資料その③

布瑠

十種神宝は『記紀』には出てこないが、天津神の子であることを示す「あまつしるし」は、『記紀』ともに神武天皇の段に登場し、『古語拾遺』などにも記載がある。漢字古事記は「天津瑞」、日本書紀は「天表」、古語拾遺は「天璽」とそれぞれ当てている。各記述の相違は以下である。

  • 古事記 - 単に天津瑞とだけしている。
  • 日本書紀 -「天羽々矢(あまのははや)」と「歩靱(かちゆき)」。武具らしき物を天表としている。
  • 古語拾遺 - 現在も皇位の表徴として有名な、三種の神器を天璽としている。

の言(ふるのこと)とは、「ひふみ祓詞」・「ひふみ神言」ともいい、死者蘇生の言霊といわれる。

『先代旧事本紀』の記述によれば、「一二三四五六七八九十、布留部 由良由良止 布留部(ひと ふた み よ いつ む なな や ここの たり、ふるべ ゆらゆらと ふるべ)」と唱える「ひふみの祓詞」や十種神宝の名前を唱えながらこれらの品々を振り動かせば、死人さえ生き返るほどの呪力を発揮するという。

  • 「ふるべ」は瑞宝を振り動かすこと。
  • 「ゆらゆら」は玉の鳴り響く音を表す。

饒速日命の子の宇摩志麻治命が十種神宝を使って神武天皇と皇后の心身安鎮を行ったのが、宮中における鎮魂祭の起源であると『先代旧事本紀』には記載されている。

十種神宝の行方

石上神宮の祭神である布留御魂神は十種神宝のことであるとする説もある。石上神宮に伝わる鎮魂法では「ひふみの祓詞」や十種神宝の名前を唱える。いずれにしても、十種神宝は現存していない。

本物か不明であるが、大阪市平野区喜連6丁目にある式内楯原神社内の神寶十種之宮に、偶然、町の古道具屋で発見されたという十種神宝が祀られている。石上神宮側から返還要請があったにもかかわらず、返していないという。

江戸時代、山崎闇斎は、垂加神道においては神秘的な意義の有るものとして、さまざまな口伝的著述を残した。

籠神社には、息津鏡・辺津鏡という2面の鏡が伝世している。十種神宝の沖津鏡・辺津鏡との関係は不明で、籠神社も特に見解は出していない。

秋田県大仙市の唐松神社には古史古伝のひとつである『物部文書』とともに奥津鏡、辺津鏡、十握の剣、生玉、足玉とされる物が所蔵されているという。

京都市伏見区には伏見神寳神社がある。

~以上~

 

八咫烏に取材を許されたという飛鳥氏の話を読んでいる人は分かると(ピンとくる)思いますが、

籠神社の二枚の合わせ鏡ってアークの二枚の石版の事です。

 

つまり・・・・トータルで考えると御霊振りってアークの持ち主がいないと本当には寿命を伸ばせないって事。

つまり今までは形式だけが残存していたという事。