昨日作った記事ですが、かなり重要な部分だと思います

必見

 きっと皆様題名に驚いたんじゃないんでしょうか?いつもの調子だと何を書くんだろう(;´д`)と思ったかもしれませんが(笑)先に言っておきますが、芸能人を見る感覚かもしれませんがが私は天皇家は上品なイメージだし好きです。

しかし、真実と、好きという事は別に考えています。

 

ネット上の情報はきちんとした情報源かどうか見極めないと・・・・

洗脳とは全体を見ないで一方向からしか見ないと成立するものであろう

現に、神社や寺は滅茶滅茶にしされていますから、遡って検証すれば答えが出るのに、自分の観念だけで答えを探そうとしても時間の徒労に終わるんだと自分の経験から思っています。

 

【明治天皇のすり替え話は案外答えが簡単に出るのでは?と思っています】

それは信仰を変えたという暗示かも知れないと思います。

というのは、皆様天皇家=神道って思っていませんか?

あっ、当たり前だろ

たかちほ何言ってんの(@_@;)今更

と大部分の人が思うことでしょう

 『実はそこが大きな盲点なのですよ』

天皇といえば、現人神・・・・スピ本から神社系知識を得てしまった人は飛鳥氏の話にも出てきますね。

しかしです・・・・天皇が神君子として世にデビューしたのっていつだと思っていますか?

実は明治なんです

今までと違った大掛かりな変化は伊勢神宮を歴史上はじめて天皇が参拝したことで、これによってアマテラス信仰と天皇を現人神とみなすシナリオが動き出した

伊藤博文をはじめとした天皇集権作戦の大成功がここで決まったという訳だ

明治憲法は、たくみに二つのことを一続きの政治意匠に仕立てている
 第1条では「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」としながらも、他方、第4条で「天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攪シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ」というように、第55条で「国務大臣ハ天皇ヲ輔弼シ其ノ責ニ任ス」というように、それぞれ規定することによって、国体の体現者としての天皇は、同時に立憲君主として憲法と議会と政府に巧妙につながっていったのである

※これも誤解なきように言っておきますがミステリーテラーとしての飛鳥さんは好きですが、ですが・・・・この明治維新の時の天皇の現人神は明治政府が作ったものだという事実をどうして抜いてしまっているんですか?天皇=アマテラスという考え方は相当近代に確立されたという事実はどこへ行ってしまったのか?

 

現に記紀によれば、天皇(当時は大王)と仏教の関わりは6世紀の欽明天皇に始まる

 
つまり、天皇自体も神仏習合信仰でした。
その一例を以下に書きます。
 

大嘗祭は仏教の火葬によって確立された

持統自身は違った。孫である文武へ初めての生前譲位を断行し、そのまま大嘗祭で穢れなき天皇霊を継承させた。そして自らの死に際しては火葬を命じたのであった。それでも、崩御した持統には約一年の殯が施されたが、遺命通り火葬に付され、夫帝が待つ大内山陵に合葬された。以後、例外はあるが、皇位継承として、生前譲位→新帝の大嘗祭→先帝崩御→火葬→埋葬、あるいは先帝崩御→新帝即位→先帝の火葬→埋葬→新帝の大嘗祭、という流れが定まった

 
平安以降は仏教こそが「国教」であった

平安時代となり、空海と最澄が唐に渡り、密教という霊的呪術を日本に導入した。天皇以下貴族はこれに入れ込み、加持祈祷(かじきとう)が天皇と日本を防衛することになる。宮中では毎年正月、神道による前七日(第一週)の節会の後、八日からの第二週、今度は空海ら密教僧による「後七日御修法」が行なわれ、玉体(天皇)の安穏を祈願していた。また、最澄の延暦寺でも、国難など大事の際は「安鎮国家法」という法会が催されていた[注5]。

平安京大内裏には、空海の進言によって真言院が建てられた。それは陰陽寮や神祇官(神道の役所)の建物よりも内裏に近い位置にあった。ここで、玉体の代わりに玉衣が「後七日御修法」による加持を受け、外部の邪霊・悪霊から天皇を守っていた。それは、毎秋の新嘗祭(真言院のすぐ横にあった中和院で挙行)で神と新穀を食すことで、内部から玉体と天皇霊を賦活(ふかつ)する神道呪法とちょうど対になっていたのだ。

 

天皇に愛された最澄は伝教大師、空海は弘法大師と尊号を賜った。ますます皇統の仏教への傾倒は続き、出家した上皇を「法皇」と呼ぶように、僧職は皇族や貴族たちの隠居後の仕事ともなった。門跡寺院が次々に誕生し、そこはいつしか皇族たちの菩提寺となる。鎌倉時代に入り、公家方が敗れた承久の変の後ち、受け手がなかった天皇葬儀を引き受けた京都の泉湧寺が以後、皇室の菩提寺となり「御寺」(みてら)と呼ばれ、明治に至ったのである。

 

中世における天皇と仏教との関わりの象徴に後醍醐天皇の例を挙げておこう。後醍醐天皇の肖像は、まさに神仏に守られた天皇として描き出されている。中国皇帝風な衣の上に僧が着る袈裟(けさ)をかけ、両手には密教呪具を持っている(その所作は金剛サッタの変化身であることの表現)。さらに、仏菩薩が乗る壇上に坐しているのである。背後には「天照皇大神」などの神名が掲げられているが、それも本地仏である大日如来の威光の表現かも知れない。

~以上~

 

これは私だけが書ける情報ですが、神道護持の頂点の人が、空海と皇族が関わりが強かったのは、お宅に伺った時、空海のお寺の部材が使用されていた事。空海の仏像がある事からもよくわかりました。

本来だだの神道一派なら必要ないでしょ?天照の像を飾っている筈です。

 

最初?どうして?という疑問の方が強かったですが

※アークをしょう事になっている一族だからなのか?アークに関係あるから=アークを隠した空海と縁が深いからかな?と思っていたのですが、実は皇族自体が上のように仏教を信仰していた時代があったからでしょうね。

 

アマテラス=天皇というのは政府の方針であり真実とはまた別でしょうね。

すると剣が・・・・見たことさえないという話もうなずけます。

参考文献

山折哲雄『死の民俗学』岩波現代文庫
黒田日出男『王の身体 王の肖像』平凡社
安丸良夫『神々の明治維新』岩波新書