嘆願書の返事がないまま、1791年になる(光太夫41歳頃)。

遭難して9年の月日が流れるが、光太夫たちは頑なに帰国を願った。

1月13日、九右衛門息を引きとる。60歳に近かった。これで光太夫、磯吉、小市、新蔵、庄蔵の5人になる。

庄蔵は帰国をあきらめ、改宗した。当時異教徒は、禁教令で日本には、帰国できなかった。

 

ついに光太夫はキリル・ラクスマンに伴われ、首都サンクトペテルブルクに向かい、皇帝に直訴することになった。

 

1791年1月15日 サンクトペテルブルクに向けて出発

道路整備もよくされていて、キビツカ(馬そり)での移動もこれまでに比べて容易であった。GoogleMapで調べると、イルクーツクからサンクトペテルブルクまで、車でおよそ78時間(距離6,253㎞)。もうすでに距離感覚がロシアンであるが、当時はその距離を1か月余りで走破した。35日だとすると平均1日あたり、180㎞進んだことになる。仮に10時間であるとすれば、1時間に18km。早めの自転車くらいか。
 
ちなみに電車でもいけるか確認すると4日くらいでいけるようだ。今のロシアに平和な時がくれば旅行もいいのになと思う。
 
キリルと光太夫らは、トボリスク、エカテリンブルグ、ニジニ・ノヴゴロド、モスクワを経由してサンクトペテルブルクに到着した。
 
現代では
トボリスク:チュメニ州の都市。人口は10万人程。1587年創設。
エカテリンブルグ:スヴェルドロフスク州の州都。人口約150万人。ロシア4番目の都市。
ニジニ・ノヴゴロド:1221年に築かれた。人口120万程度。ソ連時代はゴーリキーと呼ばれた。ノヴゴロドは「新しい町」を意味する。
モスクワ:ロシア連邦の首都、人口約1,270万人, 1755年にはモスクワ大学(ロシア最初の大学)開校。
 
女帝エカテリーナ二世は、夏季4カ月余り、避暑地のツァールスコエ・セローの離宮ですごす。キリル・ラクスマンらの尽力でついに5月28日、女帝エカテリーナ二世に拝謁し、遂に帰国が認められた。9月29日、正式に帰国願いが許可された。アムチトカ島に漂流して、2,992日後、帰国できる望みが叶った。
 
女帝陛下は、光太夫に金のメダル、時計1個、金貨150個、小市と磯吉に銀のメダル、
さらに小市、磯吉、庄蔵、新蔵に金貨50個が下賜され、帰国までの生活費に光太夫に銀貨900個、小市、磯吉、庄蔵、新蔵に300個をわたされた。また、三人の帰国に際して使用する馬車、または馬橇を入手する費用として、銀貨300個も光太夫に渡された。
 
キリルには、終始光太夫、水主たちを親身に世話し、私費で光太夫をサンクトペテルブルクに連れてきた行為を讃えられ、金剛石の指輪1個と銀貨10,000個を与えるように指示され、イルクーツクからサンクトペテルブルクまで連れてきたひようとして、銀貨5000個が与えられ、ロシアから日本へ護送する航海の費用として、金一桶、銀一桶が下賜された。なんていう太っ腹!
 
⑧につづく