ヤクーツクについたものの、代官からイルクーツクに行くように命があり、12月13日に出発。極寒での中での移動。キビツカ(露:кибитка、Kibitka)という馬橇(うまそり)で。ざっくりというとサンタクロースのそりにトナカイではなくて、馬で引くイメージ。

1789年2月17日 イルクーツクに着く (光太夫39歳頃)

GoogleMapでみると現代では車で42時間、およそ3,000㎞でヤクーツクからイルクーツクに移動できるといったところ。
当時はタイムゾーンがあったのかわからないが、ヤクーツクとイルクーツクでは、時差(1時間)がある。あとで調べたがヤクーツクとオホーツクも時差1時間あり、オホーツクとカムチャッカは時差2時間。
 
イルクーツクはバイカル湖に近い西側にあり、シベリア一番の都会である。
現代では人口は60万人程度。
 

 

バイカル湖は面積3万1,500㎢。琵琶湖の約47個分。タタール語で「豊かな湖」を意味する。光太夫らもきっと目にしたに違いない。

 

1782年からイルクーツクに総督府を設置。光太夫がこれまで滞在したオホーツク、ヤクーツクより大きな町であった。

 

ヤクーツクからの旅の途中で、庄蔵が足の痛みを訴えるようになった。もともと湿毒(梅毒?)により足が悪かったようであるが、寒さによりさらに悪化。切断する手術をうけた。おろしや国酔夢譚では、西田敏行が演じていた。自分は映画館でその上映を観た(およそ30年以上前)が、可哀そうで仕方がなかったことを今も覚えている。

 

 

 

イルクーツク滞在中、生活には困らなかったものの、帰国の願いは、なかなか叶わず、三度の嘆願書を出すも、最初は役人になれ、二度目は商人、三度目は返事もなかったと。そんな中、ヤクーツクからイルクーツクまで行動をともにしたホッケイチという人物が、キリル・ラクスマンを紹介してくれる。これは光太夫らにとって大きなターニングポイントになったのではないだろうか。

 

キリル・ラクスマンはフィンランドの出身(当時はスウェーデン領)の自然科学者で、ロシア帝国サンクトペテルブルク科学アカデミー会員として、女帝エカテリーナ二世や政府高官と知遇を得る立場にまでなっていた。

 

ラクスマンとは1790年に知り合い、彼らの境遇に同情し、帰国が叶うように尽力してくれた。光太夫一行は、ラクスマン一家と家族くるみで付き合うようになった。

 

⑦につづく