レンブラント『聖ペテロの否認』 | ムカデのあだ転び

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『聖ペテロの否認』(1660)
レンブラント晩年の一作。
タッチの荒さはその絵筆の流暢さ、創意が可能にする大胆さを物語るようで、晩年の筆運びとは思えない活気があります。

彼の作品を既に観たぼくらは今やこの作品の中心を容易に見出すことができます。

隠された蝋燭の灯は―太陽が蒼穹の蒼を破るように光源はその特異さゆえ中心を嫌うのです―、隣接する空間に中心をスライドさせてペテロと彼を詰問する女に向けられています。

また彼を疑う兵士たちの視線は皆ペテロのかんばせに集約され、画中には一切の発散が抑制されています。

レンブラントのこうした人物配置のみによる巧みな視線の誘導・操作は、「図像様式」というレンブラント解釈の専門語を生み出しています。
劇的で力強い瞬発力を要するバロックの美術においては、わけても彼の必然的な構図が生きたことが想像されます。

この中心―聖ペテロ―の持つ悲痛は、人性を持つあらゆる精神の挫折と悲痛の表現なのか、それとも人性が真なる敬虔を許されるための大いなる頽廃の表現なのか…

こうして中心なすペテロのかんばせには、多くの思索に耐える奥行きが与えられています。

最後に。
レンブラントはこの作品においてもうひとつ創意を発揮しています。

画面右上から視線を寄せる男が見えますね。
初代法王としてキリスト教の礎となる聖ペテロに「鶏が鳴く前に、汝三度我を拒まん」と予言したイエスの眼差しなのですが…


彼の眼差しは一体どこに向けられているのか?

ぼくにはそれが気になります。
イエスの眼差しがもし、ペテロを指しているとすれば、作品には完全な調和が訪れます。

しかしイエスがもし作品を越えてこちらを眺めているとしたなら、作品はまったく新たな様相を呈することになります。
今度はイエスの眼差しに射抜かれたぼくらが作品に呼び出されてしまうからです。

イエスの眼差しが人性を超えた眼差しとして特異化されるとき、この読みはひとつのリアリティを持ちえます。

こうした問題意識がいずれも内実のない問いであることは確かです。
けれど遠くからこちらを眼差すイエスの瞳に何らかの情念を受け取ってしまったからには、彼の視線は鑑賞者の心に住まうことになるのです。

こうして作品から受け取ったイメージが残像となって心の内で不意に再生されるとき、ぼくらは作品の余韻や残響を思わぬ仕方で響かせているものだなと驚くものです。