父は軍国少年だった。
「終戦があと1年遅かったら、予科練入隊試験が受けられた」と
よく言っていた。
当時の子供としては背丈が大きく縄文タイプの顔立ちだったせいで
「毛唐の子」とあらぬ疑いをかけられ、いじめられたりいじめ返したりの日々を
ひっくり返したかったこともあろう。
母は集団疎開を経験している。
「芋なんかもう食べたくないなんてゼイタクだ。
私は疎開先で芋畑を作らされたけど芋なんか食べられず
葉と茎(ズイキ)しか食べさせてもらえなかった」と言う。
これが当時の子供たちの空気。
今の子供がスポーツ選手やヒーローにあこがれるように
軍に入隊することに憧れ、その象徴が白い詰襟と七つ釦だった。
都会っ子は、いなかに行けばいじめられるばかりで
たまに帰宅すれば、空襲警報に追われ防空壕へ走るうんざりする日々。
物心ついたときから戦争中で、戦争が終わるなんて思いもしなかったと、
母は言った。
そんな両親は当然、当時について体験したことは語るが
当時を客観的に分析などしない。
したくないし思い出したくもないことが多すぎるのだろう。
そして先日の橋下氏の「従軍慰安婦発言」にかみついた。
「当時のことを知らない若僧が、えらそうに何を言うか」
戦争を語り継げといったり、戦争について語るなといったり
頭では「戦争を語り継がねばならない。それを引き継いでもらわねば」と分かっていながら
心では「戦争を知らない奴が何を偉そうに!」と思ってしまう。
ことほどさように戦中派の心と頭はセンシティブなのだ。
うちの親だけが偏屈なのだろうか。
もうひとつこんな思い出がある。
まだ二十歳ぐらいのころ、社の飲み会でご老体と一緒に軍歌を歌ったことがある。
今のガンプラオヤジと同じように、我が家の居間の天井からは
ゼロ戦や、紫電改や、隼のプラモがいくつもぶら下がっていたし
戦艦大和やら長門やらスラスラと描く父のおかげで
私の軍歌のレパートリーは当時から相当なものだったのだ。
本当に歌えるのかと挑まれてのことなのだが
陽気にラバウル小唄、加藤隼戦闘隊など二人で唄い終え
カウンターでご老体と盃を交わすうちに
ご老体がふと真顔でつぶやいた。
「だがな、本当はお前に軍歌を歌う資格はない」
私はどう返事をしたらよいのかわからず、彼の顔をじっと見ていた。
凛としたその顔は兵士のようだった。
軍歌を唄う年寄りを白い眼で見る若者たち。
そんな話を母にすると
「だって青春の歌ってそれしかないんだもん」と笑った。
体験した者と していない者の間には
決して越えられない溝がある。
当時の空気を知らない者がどれだけ思慮深く推察しても
彼らから見ればそれは欺瞞でしかない。
どうやっても埋められない溝。
それでも、橋を懸け続けなくてはいけない。その努力をやめてはいけない。
そして、彼らにはできない客観視することも私たちの夏休みの宿題だ。
キンピカの慰安婦像を撤去する前に
自前の「あやまちはくりかえしませぬから」を何とかするほうが先じゃないのか?
阿鼻叫喚の悲惨さにひれ伏して思考停止している場合ではない。
歴史観にも是々非々が必要だ。